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日本三名鐘では、これまでに「姿(形)の平等院」、「声(音)の園城寺(三井寺)」についてふれてきた。残りの「銘の神護寺」については、梵鐘にヒビが入っている状態で、撞くことに耐えられないということであった。そのため鐘楼を見上げるのみとなった。神護寺の厳かな寺域の中で、神護寺鐘はどのように空気を震わせて鳴ったのであろうか。その音について、中川氏は著書の中で次のように取り上げている。 「思ったより小振りな鐘である。〜かすれたヒビ割れの音を含ませながら、平安の音はくぐもりがちに境内に広がっていく」 ![]() 神護寺鐘楼 氏は、165.9Hz(平調)の響きをもつ神護寺の梵鐘を、五行思想と照らし合わせた「中世の音の思想」の中で、平安京という空間の中における音によるコスモロジーという配列体系(北西を示す平調)を仮説として述べている。 梵鐘の音による配列体系、そして平安京を包んでいた音の守り、音環境という視点から見ると、その興味は尽きることがない。 三絶の鐘 「銘の神護寺」は別名「三絶の鐘」とも呼ばれる。鐘表面(池の間四区全面)にある銘文が、橘広相(宇多天皇に重用された文人官僚)の詞、菅原是善(道真の父で橘広相の師)の銘、藤原敏行(歌人としても有名な能書家)の書という、当代を代表する文化人の手によるものだからである。 高野山真言宗別格本山 神護寺 (こうやさんしんごんしゅうべっかくほんざん じんごじ) 京都西北に位置する神護寺は、愛宕山山系の高雄山の中腹に位置する山岳寺院であり、古来から紅葉の名所として名高い。初めは高雄山寺と呼ばれていたが、天長元年(824)に和気真綱が河内の神願寺を移して高雄山寺と合併し、「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」(神護寺)と称した。 神護寺の前身である高雄山寺は、最澄がわが国初の灌頂壇(かんじょうだん)を開き、空海が住持して真言密教を広める拠点とするなど、日本仏教史上重要な寺院として有名である。 平安末期、荒廃していた神護寺を文覚が後白河法皇と源頼朝の助力を得て復興させたが、応仁の乱後に再び衰退して、江戸時代に再興された。 神護寺への道 清滝川に架かる朱塗りの高雄橋を渡ると、もうそこには神護寺へ上る道が待っている。ゆっくりと歩を進めていくと、清滝川の流れの音が徐々に遠ざかり、かわりに自分の荒い息音と、つい漏れ出てしまう「ヨイショ」という声と、自分の心臓の音だけになる。たまらず歩を止める。息を整え、耳を凝らす、静かである。聞こえてくるのは遠くの鳥の声と頭上の木々を揺らす風の音のみである。後方から吹いてきた風が頭上を通り抜け、前方の木々を揺らしながら吹き抜けていくのが見える。風の姿が見えるほど、木々の葉が豊かなのである。見上げると、そこにはすでに色づき始めた紅葉がある。8月下旬に色づいた紅葉は初めて見る。 ![]() 2005年8月24日撮影 また歩き出し、やがて深い緑に埋もれるように立つ楼門が見え始め、自然に歩みが速くなる。足下にはさまざまな大きさ、形の石で階段が積み上げられており、なかなか思うように歩みは進まない。しかし、一歩一歩踏みしめるその足音は、やがて目の前に開けるであろう景色を期待して軽やかな音を立てていた。 ![]() 神護寺楼門 ![]() 金堂より石段下の風景(一部紅葉が始まっている) もう一つの神護寺の音「かわらけの音」 神護寺のもう一つの音として、かわらけ投げの音がある。それは五大堂を抜け、清しい木立の先、錦雲峡を見下ろす場所にある。上手に投げることができれば、風を切りながら「かわらけ」は渓谷の中に吸い込まれていく。その落ちていく先の音は遠くて聞くことはできないが、きっと渓谷の岩に当って気持ちのいい音を立てて割れるのであろう。 2回かわらけ投げに挑戦した。思いきり投げたのであるが、2回とも渓谷の中には吸い込まれず、10メートル程先の草間に落ちた。パリンという乾いた音を期待したが、「かわらけ投げの音」はボソッという、何とも締まりのない音となってしまった。 参考文献 中川 真 「[増補]平安京音の宇宙」平凡社(2004) 文化庁監修 杉山洋「日本の美術355—梵鐘」至文堂(1995) 「古寺をゆく(36)神護寺、高山寺」小学館(2001)
《次回、東大寺梵鐘》
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