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天台寺門宗総本山(てんだいじもんしゅうそうほんざん) 長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ) 園城寺の起こりは7世紀に遡る。壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子である大友与多王が、父の菩提を弔うために「田園城邑(田畑屋敷)」を投げ打ち、寺を建立しようと発願したところから始まる。壬申の乱で敵対していた天武天皇は、与多王の全てを投げ打つ行動に感動し、朱鳥元年(686)に「園城寺」の勅額を与え、これが園城寺の始まりとなった。 園城寺が「三井寺」と呼ばれる所以は、天智・天武・持統天皇の誕生のおり、産湯として園城寺金堂横に湧く霊泉(閼伽井)を用いたからという説がある。そのため園城寺は、「御井の寺」から「三井寺」と呼ばれるようになった。 園城寺はもう一つの呼び名をもっている。それは「不死鳥の寺」である。10世紀ごろから比叡山延暦寺との対立が激化し、園城寺はたびたび兵火に焼かれた。また歴史の流れの中で、寺領が没収され、廃寺同然となった時期もある。しかし多くの法難に遭いながらも、人々の信仰に支えられながら、不死鳥のようによみがえり、智証大師円珍の教えを今に受け継いでいる。 「弁慶の引き摺り鐘」 ここに梵鐘にまつわる伝説がある。金堂西方の霊鐘堂に奉安されている「弁慶の引き摺り鐘」にまつわる伝説である。 比叡山延暦寺との争いの中で、弁慶がこの鐘を奪って山に引き摺り上げたところ、鳴った音が「イノー、イノー(去のう、去のう)」と帰りたいと響き、怒った弁慶が谷底へ投げ捨ててしまった。そのときにできた傷が、鐘の表面に残っているというものである。 現在この鐘は撞かれることなく静かに佇んでいる。その姿は痛々しいが、堂々とした風格を備え、霊鐘堂の薄明かりの中で長い歴史を物語っている。 ![]() 霊鐘堂に奉安されている「弁慶の引き摺り鐘」 唱歌「近江八景」に歌われる三井寺 新編教育唱歌集は検定を受けて世に出た民間の教科書である。明治時代によく歌われていた歌が集められたものであり、「近江八景」もこの唱歌集に掲載されている。新編教育唱歌集(七)、明治29年5月、作詞・作曲者未詳となっている。 曲全体は、琵琶湖の南西岸に点在する近江八景を歌詞の中に歌い込んだものである。近江八景とは、三井の晩鐘・堅田の落雁・矢橋の帰帆・比良の暮雪・粟津の晴嵐・唐崎の夜雨・石山の秋月・瀬田の夕照、以上が正式名称である。
同じく「三井寺」が出てくる唱歌がある。それは明治33年に発表された「鉄道唱歌」、正式には「地理教育鉄道唱歌第一集(東海道篇)」である。全66番中の43番歌詞の中である。
![]() 三井の晩鐘 参考文献 「古寺をゆく(42)三井寺と近江の名刹」小学館、2001 「日本の唱歌(上)明治篇」、金田一春彦、安西愛子編、講談社、1977 ・http://www.shiga-miidera.or.jp/ 園城寺(三井寺)オフィシャルサイト
《次回、神護寺鐘》
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