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ラグーザの作品が目の前に現れた時、正直言って胸の高まりを抑えることができなかった。いつもなら美術館の台座の上にある作品が、このように目の前にありながら、なおかつ痛々しく破損した状態で置かれていた。今回はこの作品を復元するのだということがすぐにわかった。 ヴィンチェンツォ・ラグーザ(Vincenzo Ragusa , 1841−1927)。シシリア島パレルモ市近郊のパルタンナ・モンデルロに、ミケーレ・ラグーザ(Michele Ragusa)とドロテア・フィリッペリ(Dorotea Filippelli)の子どもとして、1841年7月8日に生まれた。幼少から絵画に興味をもち、親にこっそり隠れて宗教画家のパトリコーロに素描を学び、象牙師の仕事場では鑿(のみ)の使用法を無料で教わった。そして一時は就職や約4年間の兵役についた後、親の反対を経て1865年に本格的に彫刻を始めた。ヌンツィオ・モレルロ経営の塑像学校に入学し、同時に午後はサルヴァトーレ・ロ・フォルテに古典彫刻の素描を、夜はアカデミア・デル・ヌードに学ぶという熱心な勉強ぶりであった。1872年、ミラノの全イタリア美術展に石膏でつくった「装飾暖炉」を出品して、モンテヴェルデとチヴィレッティとともに‘ウンベルト殿下賞’という最高賞を受けた。これにより、ラグーザの名が知られるようになった。 さらに1875年、日本政府からの委嘱によってイタリア政府が彫刻学教師選抜競技を開催し、出品したラグーザは応募者が50人以上(河上眞理氏によれば、実際には彫刻教師の候補者は14名であった)いる中で首席となり、工部美術学校の教師として日本に来日した。ローマで日本政府と交わした契約書に「彫刻学教師トシテ日本政府ヘ使ヘ東京彫刻学校ニ於テ大小形人面・動物・花・草・果物等ヲ彫刻スルノ術ヲ伝習スベシ」と簡単な内容しか書かれていないことをみると、当時、西洋彫刻に対して全くといっていいほど白紙の状態であったことがわかる。またこのことは、木彫師として有名な高村光雲(1582−1934)が、「脂土や石膏に心を惹かれた」話として、工部美術学校の西洋彫刻は自分の世界とは違うことが「高村光雲懐古談」に語られている(のちに西洋彫刻と自分の実物写生の研究を結びつけ、新たな造形美を目指したことは興味深いことである)。こうした困難な状況のなかで、ラグーザは彫刻の教授にあたった。 彫刻学としては、油土による実物写生、塑像から石膏への型取り、石膏原形から大理石にコンパスで写し取る制作などを教授した。さらに、西洋彫刻に対する受け入れの困難さと共に国粋主義が起こり、工部美術学校創設当初の計画から後退を余儀なくされてしまった。しかし、ラグーザは工部美術学校での教師と共に、三田小川町の官舎近くのアトリエで「伊藤博文像」など知名度の高い人々の胸像や婦人像の制作を行った。「山尾庸三像」もこの時期に制作されたものである。 1879年8月第一期の契約が終了すると、さらに第二期の契約を結び、1882年6月29日、大熊氏廣(1856−1934)や藤田文蔵(1861−1934)など20名に卒業証書あるいは修業証書を授与した。この直後に彫刻学科は廃止されてしまうのであるが、ラグーザはこの年に亡くなったガリバルディ将軍の記念像をつくるのは自分しかいない、そしてイタリアに工芸学校を創設しようと考えたことが重なり、漆工家の清原英之助と刺繍家で英之助の妻千代、そしてその妹の玉(のちにラグーザの妻)を伴って、同年8月に帰国した。 イタリアに帰国後のラグーザは、自費でパレルモ市に工芸学校を創設し校長となった。この工芸学校はのちに市立高等工芸学校となり、ラグーザは校長をやめ、再び彫刻の指導にあたった。その後、1927年3月13日に亡くなるまで、ラグーザはパレルモ市にある念願だったガリバルディ騎馬銅像をはじめ、幾多の作品を制作した。 このように、わが国に西洋彫刻を最初に伝えたラグーザ。そのラグーザの一作品である「山尾庸三像」が、今私の目の前で静かに横たわっているのである。 <参考資料> ・ 木村 毅 編「ラグーザお玉 自叙伝」1980 恒文社 ・ 金子一夫「近代日本美術教育の研究 明治・大正時代」1999 中央公論美術出版 ・ 高村光雲「高村光雲懐古談」1970 新人物往来社 ・ 東京国立近代美術館 編「フォンタネージ,ラグーザと明治前期の美術」1977 東京国立近代美術館 ・ 河上 眞理「ヴィンチェンツォ・ラグーザ伝の検討−マリオ・オリヴェーリ著『大理石の芸術家』を中心に−」早稲田大学 地中海研究所 オンライン版 地中海研究所紀要 第2号,pp29−43 ・ 澄川喜一、本郷 寛、矢野 真、大沼邦康「ヴィンチェンツォ・ラグーザ作『山尾庸三像』石膏原型修復とブロンズ像収蔵について」 2002 東京芸術大学美術学部紀要第37号,pp5−16 ![]()
*次回は4月上旬掲載予定
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