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大分県の北に、親指の形をして周防灘に突き出す半島がある。「国東半島」である。この半島は「くにさき」と読み、仏教の里として知られている。ここに継承されてきた六郷満山(ろくごうまんざん)の仏教文化は、実に千余年の歴史を刻んできたのである。往時には60寺以上、宿坊500以上、宝塔500以上などの仏教文化を表現する史跡に事欠かない。時を遡ると、養老二年(718年)に仁聞(にんもん)聖人によって開基された天台宗天念寺、ここに仏教法会の修正鬼会(しゅじょうおにえ)が伝えられている。 この修正鬼会は旧暦1月7日の夜から8日にかけての徹夜行事であったが、近年では7日の内に終了する。この鬼は幸いをもたらすものであり、鬼に扮した僧侶の勤行(ごんぎょう)が済むと、僧侶にお斎(とき)の夕食が準備される。膳には白和え、大根なます、野菜の煮物、ぜんざい、そして面白いのは麦飯が提供されることである。もう一つの驚きは、麦酒が振舞われることである。麦酒は麦飯に麦麹を掛けて発酵させたもの。まさに麦づくしである。 麦はいつ頃この列島に伝わったのだろうか。平城京跡から出土した木簡のなかから、「赤米」などとともに「麦」「小麦」「大麦」の穀物名が解読されている。 大宰府からも「麦」の木簡が出土している。「古事記」(712年)の「五穀」には、稲、粟、小豆、麦、大豆が挙げられている。麦の栽培は水稲の裏作としてすでに定着していたようであるが、救荒作物としての麦栽培に関する太政官府の奨励(712年)が発せられたのをみると、全国的には麦の作付けが進まなかったのであろう。 国東半島から南に下って宇佐平野の一帯は「豊後」、その北西地域は「豊前」と呼ばれ、この地域は畿内に対して「豊の国」と称されていた。その宗教的・政治的中心にあり、中央政権に対峙していたのが宇佐八幡宮である。当時、豊の国を挟んで宇佐八幡宮と新羅の神を奉ずる香春神社が対峙していた。香春・豊前・豊後には多くの渡来人が住んでいたが、大陸や朝鮮半島の文化や先端技術が渡来人や僧侶によって持ち込まれたのは十分推察可能である。 麦には小麦と大麦があり、小麦は粉にして麺やパンとして食す。大麦は六条や二条という種類があり、麦芽はビールの主原料として、また大麦の仲間の裸麦は粒食として麦飯に使われる。粉食にするには製粉の技術が必要であり、また粒食では硬い外皮を取り除く工夫が必要とされる。小麦の作付けが前進するには麦を食すための技術や道具が不可欠であった。 ところで、大麦を主原料にして、麦麹を活用した麦焼酎が誕生したのはまさにこの「豊の国」文化を象徴するものである。その幕を開いたのが「二階堂」であり、まろやかな麦の香りを焼酎に閉じ込めている。また、「西の星」は大麦の新種「ニシノホシ」を深く醸し蒸留したもの、ストレートでの飲みに格別な旨味を持つ。主原料の麦を開発したのもこの麦の郷ならではのこだわりである。 宇佐平野は古来より米どころで知られている。主食は米であるが、麦を食すことで食文化は多彩で豊かになる。この豊前・豊後地方では最近まで裸麦を粒食として使用して、麦飯を常食としていた。小麦の粉食としては「団子汁(だご汁)」や「やせうま」がある。これは日常食である。麺食ではなんと言っても「腸鮑(ほうちょう)」が極めつけ。塩と水でこねあげた小麦粉を二度寝かせてコシを強くし、手延べで2メートルもの麺にする。これをゆでて冷水で締め、お湯に浮かせて薬味入り醤油をつけ一気にのどを通す、これが麦の郷の醍醐味である。
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