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奄美大島を始めて調査で訪れたのは、すでに25年前のことになる。まず「宇検村まちづくり調査」を実施し、次いで「黒糖焼酎」の調査に移った。見るもの、聞くもの、そして食するもの、すべてに驚きと感動の日々であった。鶏のスープとパパイア漬けとの微妙な旨味バランスの「鶏飯(けいはん)」、そして「やぎ汁」の醸す濃厚な個性、その食感はロックでのどを通した黒糖焼酎の爽やかさとともに記憶の底に、今でも焼き付いている。
鹿児島県南の薩摩半島から南西に約千キロメーター、西の国境与那国島がある。逆に薩摩半島から東北に向けて直線距離約千キロメーターに東京が位置する。奄美諸島は東京と与那国島の真中に位置し、薩摩半島から南西約500キロメーターから沖縄県との間に、多くの島々を抱えている。黒糖焼酎の醸造はこの奄美大島郡、より正確には大島税務署管内だけに認められている。なぜ奄美大島だけに許可されたのか、なぜ黒糖、つまり黒砂糖を主原料とするのか。その回答は奄美大島の歩んだ過酷な歴史の中に秘められている。 その奄美大島が第二次大戦後の約8年間、アメリカの治政下にあったことはあまり知られていない。黒糖焼酎は昭和28年(1953年)の「本土復帰」に際しての特別措置として、糖蜜を使用する蒸留酒の伝統が考慮され、酒税法上の「しょうちゅう」として認められたのである。サトウキビでは「ラム酒」、黒糖を主原料とすれば特別措置として焼酎となる。醸造工程はイモ焼酎やムギ焼酎などと同じように、まず麹菌の力を借りてモロミを醸し、そのなかに溶解した黒糖を加えるのである。奄美大島の焼酎醸造所は平成18年度現在29社に上る。写真は宇検村の酒造所にいただいたものである。主原料であるサトウキビは、江戸期慶長15年(1610年)に直川智が中国福建省から持ち込んだと伝えられる。また、蒸留の製法はイスラム文化に発し、シャム(=タイ)、琉球国(=沖縄県)を経て、15世紀半ばに奄美大島伝えられたようである。
蒸留酒造りは、蒸留技術とその道具が極めて重要なポイントである。ところが、この日本列島の住民たちは海外から蒸留技術が伝えられるまでは、醸造酒を沸騰させて蒸気を採ることに関心を向けなかったようである。嘉永3年〜8年(1850年〜5年)に記された『南島雑話』にはなんと蒸留具がスケッチされている。この書は名越(なごや)左源太の手になるが、名越は薩摩藩のお家騒動で「遠島」となり、奄美大島での5年の生活のなかで見事な図解民俗誌を書き上げている。この書を参照しつつ奄美大島の食文化の特徴を浮き彫りにしてみよう。 名越の描いている蒸留の具は「焼酎を煮て垂るるの図」とある。現在の蒸留でも、最初に抽出されたものは「はなたれ」というが、「垂れ」という表現こそまさに焼酎用語である。また当時の焼酎原料とその評価が挙げられていて実に興味深い。「椎(しい)」、「蘇鉄(そてつ)」、「粟(アワ)」、「麦(ムギ)」、「甘藷(カンショ)」、「餅米(モチマイ)」、その他「百合根(ユリネ)」、「莓(キイチゴ)」、「桑(クワ)の実」、なんと多彩な焼酎の種類であろう。そのなかに「サトウキビ」が挙げられていないが、そのすべてが完全に薩摩藩に管理されていて、とても使用できる状態でなかったからである。
奄美大島では「白酒」も飲まれてはいたが、接客、普請、祭事など人の集まりの座では焼酎が主役であった。わが国では蒸留酒を肴なしに飲むひとは少ない。その焼酎は食と人とで食卓を創るのである。米の次に重要な甘藷、サツマイモである。凶作となると次の食材は「蘇鉄(ソテツ)」、主食の代わりに、味噌に、そして焼酎の材料にもなる。食材は豊かで食卓は賑やかあったであろう。海や川の魚、猪に豚、調味料は塩、醤油、酢、そして味噌。魚や肉類を味噌漬けで食す。また、油の揚げもの、「付け揚げ」には驚かされる。江戸期に、江戸の町を除けば奄美大島は食の極楽郷であった。 |
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