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日本の人形には、様々な用途や目的があります。仮にそれを三つに分類すれば、「信仰」・「観賞」・「愛玩」といえるでしょう。しかし、例えば信仰的な「ひとがた」に発した雛人形が、のちには観賞を主眼として工芸的発達をみせたように、時代による変化等を考慮すると、なかなか一概にはいえない複雑さを持っています。また、文楽人形などの場合、演じる側と観る側によって用途も目的も自ずと異なってきます。そのような複雑な存在の一例として、今回は「市松人形」についてお話しいたしましょう。 市松人形という呼称は元来、京阪に限られたものでした。それは江戸時代中期の人気歌舞伎俳優・佐野川市松の似顔人形が発売されて、女性たちの評判を呼んだことに由来するといわれます。つまり、当初の「市松人形」は愛らしい女児でも男児でもなく、美しい若衆の姿だったのでしょう。ただし、若衆の人形に加えて、のちに幼児をかたどった人形も作られるようになったのではなく、佐野川市松似の人形が登場したことで、それ以前からあった愛玩用のさまざまな人形もまた「市松人形」と呼ばれるようになったものと思います。本来の若衆の似顔人形はいつしか消えてしまいましたが、その名のみは残り、京阪ではこれをちぢめた「いちまさん」の愛称が普及しました。一方、むろん江戸にもこうした人形はありましたが、市松人形とは呼ばれず、単に「人形」といえばこの種のものを指していたといいます。 市松人形は粗製から極上製まで幅広く、上製には笛入り(腹部にフイゴ式の笛が入り、押すと音を発する)、三つ折(みつおれ、腰あるいは腿・膝・足首の関節を曲げられるもの)、また御所人形風の頭のものや似顔を誂えたものまであり、素材も木彫、桐塑(桐の挽粉と正麩糊を練り固めたもの)、張子とさまざまでした。このうち、笛入りと三つ折の仕様はいかにもこの人形が愛玩を目的として作られたことを示しています。裸のままで販売されるものは特に「はだか人形」とも呼ばれましたが、これの衣裳は各家庭で手縫いしました。女の子にとっては、裁縫の良き教材でもあったことでしょう。
女性や子どもたちが抱いたり、あやしたり、着替えさせたりして遊んでいた市松人形に新たな目的「観賞」が加わるのは、明治以降のことです。もちろん、江戸時代にも普段はもてあそびに用いていたそれを、雛祭りの時に雛人形や雛道具と一緒に並べて眺めたりすることはありましたが、これはあくまで二次的な事例といえましょう。これらに対して明治後期、前面にガラス板を用いたケースに納められた市松人形が販売されるようになりました。それ以前、市松人形の箱といえばことごとく木箱でしたが、この「前ガラス」の箱は明らかに常時の観賞を意図したもので、ここに単なる玩具から美術工芸品的な存在への移行がうかがわれます。ただし、それは江戸時代と明治時代の市松人形自体に質的な差異が発生したためではなく、明治以降に海外から流入してきた「美術」観によって、人形などにもそうした価値を見出そうとしたからでしょう。当時の人形業界では「美術 雛人形」・「写生 武者人形」といった文言をこぞって広告宣伝に用いており、実体は別としてもこれらが一般の人々の人形に対する意識に多少の影響を与えたのではないかとも思います。 明治30年代以降は、外国からの来賓に対して宮家より特別製の市松人形を贈るなど、人形はいよいよ一玩具に止まらなくなりましたが、そうした方向を決定付けたのが昭和2年(1927)のいわゆる「日米親善人形交流」でありましょう。アメリカから贈られた約12,000体の「青い目の人形」への返礼として、日本からは市松人形様式による58体の「答礼人形」を贈ったのです。身長2尺7寸(約81cm)という大きさもさることながら、下着から襦袢、振袖、小物に至るまでの贅沢な仕様は、観賞という点での最高峰に位置するのみならず、まさしく人形は人間の代わりに国際親善を果すという「使節」の役割をも担うこととなりました。 付言すれば、この答礼人形の製作にあたって、東京の人形業界では51体を選定することとなり、コンクールのような形式で人形師から作品を募りましたが、その際、非常に高い評価を受けたのが、当時弱冠24歳であった平田郷陽(二代目)の作品でした。郷陽は父から受け継いだ「生けるが如く写実的な」生人形(いきにんぎょう)の技法を加えた作品を出品しましたが、それは卓越した技術とともに今日なお他の追随を許さぬ市松人形美の頂点とされています。また、こうした社会的な出来事を契機に、郷陽は人形を芸術に高めるべく努力を重ね、昭和11年(1936)には改組第1回帝展に入選し、さらに昭和30年(1955)には人形として初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。
戦後、市松人形は専ら観賞目的のものとなりました。着物は、女児の人形ならば振袖、男児ならば羽織袴の盛装が通例となり、販売時からしっかりとした木製の台に立たせられて、着せ替えもままなりません。しかし、その現状とは裏腹に、平田郷陽が完成させたような美術的あるいは芸術的な市松人形が作り出されることはほとんどなく、それを専業とする人形師も徐々に減り、いつしか両手に満たないほどの数になってしまいました。ところが近年、中高年の女性たちを中心に再び市松人形が静かなブームを呼んでいます。それぞれの好みやきっかけは異なるのでしょうが、幼い日々への懐かしさや手作りの温もり、大量生産品ではない稀少性などが人気の理由のようです。戦前までの市松人形を熱心に収集する人や、昔に戻ったように裸の市松人形を求めて、それに合う着物を縫う人も少なくありませんし、なかには自ら人形の制作を手掛ける人さえいます。 江戸から現代まで、時代とともに変化してきた市松人形。人形が時代を映す鏡のような存在であるとすれば、果して我々はどのような市松人形を次代に遺し伝えることが出来るのでしょうか。
《次回は8月初旬掲載》
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