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江戸時代初期から中期にかけての五月飾りは、総じて屋外に飾る「外飾り」(そとかざり)が主流でした。それはこれらが武家の戦陣に倣った幟や槍、長刀、吹流などであったからばかりでなく、外に飾ることによって神の降臨の目印とする意味が重視されていたためと考えられます。はじめは兜の頂に乗っていた武者人形が、兜から独立して飾られるようになったのは江戸中期頃のことですが、まだ暫くの間は依然として兜も武者人形も屋外に飾られていました。特に武者人形は等身大ほどの大きなものさえあったことが当時の絵画資料などから知られます。
それら外飾りの多くが小型化して屋内に飾られるようになるのは江戸後期のことで、往来に面して飾っていた兜や武者人形は内庭や縁側に引っ込み、ついには座敷に並べられます。外飾りから「内飾り」(うちかざり)に変化した理由には、奢侈を戒めた幕府の禁令のみならず、文化の爛熟とともに庶民の間でもより工芸的で精巧なものが好まれるようになったという時代の変化、そして、江戸中期から後期にかけて急速に発達する上巳の節句の雛人形・雛道具の影響もあったことでしょう。現代の五月飾りは、高度な工芸技術と豊かな庶民文化を背景として完成された、この江戸後期の五月飾りが原形となっているのです。 江戸から昭和戦前にかけて武者人形として作られたのは、庶民にとって芝居や絵本などを通して馴染み深い、歴史上・伝説上の英雄豪傑たちでした。その主なものは、鍾馗、神功皇后と武内宿禰、応神天皇、源頼義、源義家、源義経、牛若丸と弁慶、曾我兄弟、豊臣秀吉、加藤清正、関羽、神武天皇、金太郎、桃太郎などで、金太郎と桃太郎を除けば大半が成人男性の姿です。しかし、これらの武者人形は戦後、歴史観あるいは歴史教育、娯楽の変化などに伴って次第に作られなくなってしまいました。現在では、武者人形といっても優しい表情をした健康的な子どもの人形がほとんどですが、凛々しさや風格に溢れた往時の武者人形には魔除け・厄除けといった端午の節句本来の意味や、子どもの立身出世への願いがより率直に表されていたのではないでしょうか。 武者人形にも雛人形同様、地域や時代的な特色があります。かつて関東では鍾馗(しょうき)や金太郎が特に好まれ、概して動的で迫力ある作風を特徴としたのに対し、関西では「大将さん」と呼ばれる、人物を特定しない甲冑姿の武将など、静的で上品な作風のものが好まれました。江戸で鍾馗が人気だったのは、その勇壮な姿が江戸人の気風に適合したことはもちろん、歌舞伎の荒事として演じられたり、また神田祭の山車人形の随一といわれたのが名工・原舟月作の鍾馗であったりしたことも理由でしょう。とりわけ、衣裳をはじめ髪や髭までも赤一色で作りあげた鍾馗の人形は「朱鍾馗」と呼ばれ、疱瘡避けに霊験あらたかとされました。その一方、江戸時代の京阪では出世の象徴である「太閤さん」こと豊臣秀吉の人形が人気でしたが、江戸では徳川将軍家に遠慮してか、あまり作られなかったようです。
第一代の天皇である神武天皇の人形は現在でもみられますが、その登場は明治時代からです。東京では鍾馗と同じく山車人形に作られたことも影響したのでしょう、弓の先に金鵄がとまった東征の立像が定型となり、皇国史観の浸透とともに普及しました。江戸から明治にかけての関東の内飾りは、緋毛氈の上に武者人形や甲冑、陣道具などを何が中心といったこともなく賑やかに並べることが普通でしたが、神武天皇の人形は最も尊いものとして中央や最上段に置くこともあり、現在でも旧家にそうした飾り方を見かけることがあります。なお、今でこそ五月飾りは緑色の毛氈が定着していますが、大正頃までは魔除けの意味から多く緋毛氈を用いました。 雛人形に比べると地味な印象があるためか、武者人形は博物館等で展示企画されることもあまりありません。しかし、その歴史も、また残された作品も決して雛人形に劣るものではなく、日本の人形文化を育んだ力は非常に大きなものがあると思います。伝統工芸の粋を集めた武者人形―それは、鮮やかな新緑に泳ぐ鯉幟とともに、いつまでも伝えてほしい日本独自の「祈りと祝いのかたち」です。
《次回は6月初旬掲載》
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