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シーボルトと福岡藩主黒田斉清(なりきよ)の対話は、福岡藩士の安部龍平の手により「下問雑載」(福岡県立図書館蔵)としてまとめられている。安部龍平は、天明4(1784)年に福岡の東郊粕屋郡名島村で、百姓清蔵の子として生まれている。福岡藩の蘭学教授青木興勝(おきかつ)につき蘭学を学んだ龍平は、さらに長崎に遊学して大槻玄沢(げんたく)の長男玄幹(げんかん)の紹介で志筑忠雄(しづきただお)の門人となっている。志筑忠雄は文化3(1806)年に『二国会盟録』を著しているが、これはロシアと清のネルチンスク条約の締結過程を記した蘭訳本を志筑が口訳して、龍平が筆記する形で成立している。龍平はその後福岡藩の下級武士安部忠内の養子となり、文政2(1819)年には直礼城代組へと抜擢されるなど、斉清によりその才能を見出されていく。そして、文政11年3月の斉清とシーボルトとの対話の際にも斉清の近くにあり、その一部始終を記録として遺している。それがここで取り上げる「下問雑載」である。 ![]() 下問雑載表紙:[福岡県立図書館所蔵] 「下問雑載」の冒頭には、文政11年11月の年紀が入った龍平の序文が掲げられている。その最初の部分を分かりやすくして示すと、次のとおりになる。 今ここに戊子(文政11年)の春3月、黒田斉清侯が後継ぎの長溥(ながひろ)侯を従えて長崎の福岡藩の兵営を巡視したが、そのうちの一日オランダ商館に入り、ついに西洋の医者でドイツのハイエレン(バイエルン)の人であるシーボルトに会った。シーボルトは植物学を学び、詳しい知識を身に付けている。本邦の物産を詳しく知ることを望んでいて、既に求め集めている品種が若干種に及ぶという。 斉清侯も政務のかたわら、本草学を深く学んでいる。そのため、シーボルトが植物学に詳しいと聞くと、シーボルトのもとに赴き、通訳をもって会話を行い、斉清侯は日没近くになってようやく帰邸した。 その翌日、シーボルトは自分が獲えた鳥について、名称が的確でなかったもの数種類を送ってきて、その訂正を求めたが、斉清侯はその一つ一つに解釈を与えてシーボルトの惑を解いた。その後も、シーボルトはしばしば書を斉清侯のもとに寄せて質問した。 ある時、斉清侯はシーボルトとの対話を記録として遺すように命じられたので、私は秘かにそれを編纂して小さな冊子に仕立てた。 この冒頭の文章からは、植物について強い関心と深い知識をもつ二人の学者が相見え、時が経つのも忘れて語り合った様子がうかがえる。また、序文にはこの記述の後に、斉清に対して次のような批判があったことを記している。つまり、大名である斉清が儒学を極めようとするのでなく、なぜ西洋の学問を学ぼうとしているのか。しかも、禽獣草木の名称や物品など、本来は医者などが職務とすればいいようなことを。 それに対して、龍平は斉清にかわり次のように反論している。西洋人はいろいろな土地に実際に行って、時間をかけて世界万国のことを知っている。「天文、人事ノ際、格物窮理の術(物理学)、医治、薬物法」などについて、西洋人の言うことは根拠がしっかりとしている。外国のことを知ることが、どうして大人君子の仕事とはいえないだろうか。斉清がシーボルトに質問して、「外国ノ形勢、風俗ノ淑慝、人類ノ強弱、法政、蕃育ノ得失、奇品異類ノ形状」を知ろうとするのは単に見聞を広めようというだけでなく、知ることによって外国からの攻撃に備えることができるのである。 龍平の反論は、ロシア使節レザノフの長崎への来航などにより高まる対外的な危機意識を反映しているが、斉清の意見というよりも龍平の意見の方が強く滲み出ているように思える。斉清の西洋への関心は、龍平のように対外的危機ということだけに収斂されず、学者としての知的好奇心も含めた幅広いものであったと考えるが、ただし長崎警護役をつとめる福岡藩主として、シーボルトと話すことで世界地理・国際情勢について知識を得ようとしていたことも確かであろう。 『下問雑載』は序の後、いよいよ実際の斉清とシーボルトの対話が記録されていく。斉清の問に対して、シーボルトの答が記され、分かりやすくするために挿絵も加えられている。また、シーボルトの答に対して、「龍曰」という形で龍平自身の意見も付け加えられている。巻之上に21、巻之下に15の合計36の問いが斉清から発せられているが、そのうちのいくつかを分かりやすくして示すと、次のようなものがある。 ○ 駆熱剤の薬効があるとされる吉那樹は、亜墨利加(アメリカ)の白露(ペルー)において発見されたもので、他の国にはないと聞いたが、日本の土欒樹(和名ゴマキ)を吉那樹と同じものと考える新しい説があるが、それは正しいのか。 ○ 日本は諸草木の品類がとても多く、特に梅・桜・槭(かえで)の品類は最も多い。それなのに、ドドネウスの「草木譜」を見ると、西洋の梅・桜・槭の品類は極めて少ない。それは風土の違いなのだろうか。 ○ マリママン島(マリアナ諸島)の風土と人物はどうなのか。 ○ 南亜墨利加(南アメリカ)の伯刺西児(ブラジル)の南方の海島に、耳が大きくて男性は背が高く、女性は子どものように低い人々がいると聞くが、本当か。 ○ 輿地図を見て考えるに、巴太温(パタゴニア)は南亜墨利加(南アメリカ)の南緯50〜51,2度の地にある。最も南方にあるが、巴太温人の図を見ると裸体で、暖かい国の人のように見える。その図は必ずしも夏の様子を描いたとも思えないがどうなのだろうか。南北とも緯度を同じくするところは、南方は北方と比べると寒気が猛烈だと聞くが、それは本当なのか。もしそうならば裸体だというのはおかしいが、あなたの説を聞きたい。 ![]() 巴太温人の図:[福岡県立図書館所蔵] ○ 墨是可(メキシコ)は北亜墨利加(北アメリカ)の北緯10〜20度余りの地にあるが、非常に暑いため男性も女性も下帯や腰巻一つ付けず、酋長が細い紐を腰にまとっているだけという。これはその暑さで衣服を着れば、体が腐乱することがあるからだと言われている。東印度(東インド)地方もそうだと聞いている。赤道線近くの国の人は、色が黒く鼻が低く毛髪が短く縮んでいる。もし寒い国からここに転居したなら、数世代で顔色は黒くなると言われている。しかし、墨是可人はそれに反して、黒くないし鼻も低くない。髪の毛も長く、他州の人の倍ぐらいあるそうである。それはなぜだろうか。 ○ 日本人の容貌に似た人間は他の国にいるだろうか。オランダ人(ケンペル)の説によると、気質は韃靼人(モンゴル系部族の一つ)に似ているということだが。 ○ 日本では、仲春(陰暦2月)の頃に燕や鷺が南方から来て、仲秋(陰暦8月)の頃に南方に去っていく。これはどこの国から来て、どこの国に去っているのだろうか。秘かに考えるに、燕は寒さを恐れる鳥なので、北緯三十度以内の地に行っているのではないか。しかし、その地はとても暑くて雛を育てるには適さない。だから、日本の温暖な時期に来て卵を孵しているのだろう。そして、季秋(陰暦9月)から孟春(陰暦正月)にかけては寒気が強いので、日本を離れて赤道に近い地に行って寒さを避けている。鷺は寒さを恐れるということはないが、好んで魚を食す習性があるので、燕と同じように南方の暖かで小魚な多い地に行っている。私はそのように考えているのだが、どうだろうか。 ○ 金魚ができたのはどの土地が最初なのか。和漢いずれの書物にもそのことを書いているものがない。中国では宋の頃から金魚の記述があるが。 ○ 文化10年に筑前御笠郡山家(やまえ)宿に奇妙な獣が出没して、人々を騒がせた。その姿を見たものはいないが、ただ足跡だけが地面に残っていた。その昔、長崎にオランオウータング(オラウータン)が舶来した。その足跡を見ると、三ツ又の形になっていて、山家宿の奇妙な獣の足跡にそっくりである。オランオウータングはどのような性質で、この奇妙な獣と似ているのだろうか。 ○ 日本の方言に「水虎」、別名「カハタロウ」「カハコゾ」というものがある。夏に水中にいて人に害を与える。その形は見るも稀な怪獣である。これは西洋から乾物としてもたらされている「トロンベイタ」ではないだろうか。 ![]() 河童の図:[福岡県立図書館所蔵] ![]() 川太郎の手:[福岡県立図書館所蔵] ここに挙げたのはシーボルトに斉清がした質問のほんの一部であるが、草木や鳥獣をはじめ、世界地理やそこに住む人々、さらには得体の知れない怪獣にいたるまで、斉清の関心が非常に広範囲に及んでいるのは一目瞭然である。質問の中には、燕や鷺のところにあるように、自分なりの分析を加えた上で、シーボルトに尋ねているものもある。シーボルトから一方的に知識を教えてもらうわけではなく、二人の対話は東西の学者の知的な対話としても十分に成立しているように思う。これより後の弘化元(1844)年頃に、斉清は世界地図を念頭におき、緯度という客観的な尺度からそこに生える植物(植生)を判断する考え方を示しているが、シーボルトへの質問にも、いろいろなところに緯度の問題は記されており、科学的な思考を目指そうとする斉清の姿勢が既に感じられる。 その一方で、山家宿に出現した奇妙な獣をオラウータンと考えたり、「水虎」「カハタロウ」「カハコゾ」などの名で知られる河童(カッパ)を実在するものとするなど、「下問雑載」には斉清のあまり科学的ともいえない質問も含まれている。それに対してシーボルトは、オラウータンについては勃泥(ボルネオ)だけに生息していることを根拠にあげて否定し、怪獣に会っているのは「田夫野人」に過ぎず、彼らは見聞したこともないものに会うと、とかく大げさに話してしまうものだと付け加えている。河童についてシーボルトは、猿か亀のようなものだと答え、もしそのミイラがあれば自分が詳しく調査してその正体を突き止めたいとしている。 斉清はシーボルトの答えに対して、以下のように反論している。河童は薩摩の老公島津重豪(しげひで)が捕獲されたものを写生しており、その存在を疑うべきではない。貝原益軒の『大和本草』にも記されており、ミイラになったものは島津重豪の次男である中津藩主奥平昌高の家臣神谷源内(弘孝)が重豪から譲られ持っている。このミイラを借りて示したいと思ったが、源内が江戸にいるので、今は取り寄せることができない。 この反論からも、斉清があくまでも河童の存在を信じて疑わなかったことは明らかである。シーボルトはオラウータンのところで、怪獣に会っているのは身分の低いものだけとしているが、少なくとも河童や人魚については、身分・学識を超えて斉清も含めて多くの日本人がその存在を信じているように思える。だからこそ江戸時代の多くの本草学者たちが河童や人魚などの存在を認め、その正体を突き止めようと多くの書物が記されることになったのである。河童への斉清の質問とシーボルトの回答から、シーボルトの高い学識や西洋の学問の科学的優位性などを指摘することは容易であろう。しかしそれ以上に、河童や人魚など未知な生き物を信じる心性と、西洋から学んだ科学的な目が斉清という一人の人物に共存していることの方が、私には興味深く思われる。 この「下問雑載」が安部龍平の手によりまとめられた文政11年、シーボルトの所持品の中から禁制の日本地図などが見つかるシーボルト事件が起きる。日本地図を贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保(かげやす)ほか十数名が処分され、景保は獄死している。「下問雑載」は、まさにこのシーボルト事件の嵐が吹き荒れるなかまとめられているのである。先に記した「下問雑載」の序文の末尾には、重い罪を恐れずにこの書物を編集して註を補って後世に伝えるという一文があるが、ここにはシーボルト事件にもかかわらず、斉清とシーボルトとの問答を記録として遺そうとする斉清と龍平の強い意志が感じられる。こうして遺された記録により、東洋と西洋の二人の学者の対話を現代に生き生きとよみがえらせることができるのである。 参考文献 井上忠「斉清期−化政文化−」(『福岡県史』通史編福岡藩文化(上)、1993年) 平野満「黒田斉清(楽善堂)と江馬春齢(第4代)・山本亡羊の交流−『駿遠信濃卉葉鑑』・『忘〓竊記』を手掛かりに−」(『明治大学人文科学研究所紀要』第45冊、1999年) |
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