メインロゴ 九州国立博物館
イメージ
メインロゴ 九州国立博物館
メニューバー01 メニューバー02 メニューバー03 文字 変更 文字 小 文字 中 文字 大
トップページ
お知らせ
展示情報
催し物
ご利用案内
収蔵品ギャラリー
データベース

よくあるご質問
イメージ
Webオリジナル ろじ
イメージ
イメージ
イメージろじ[路知]
......................
イメージ第一回
イメージ第二回
イメージ第三回
イメージ第四回
イメージ第五回
イメージ第六回
イメージ
イメージ イメージ :ページ印刷
イメージ 連載:宗家文書入門 〜交流の海峡、海の記憶〜 第五回
イメージ
イメージ 東 昇
イメージ
イメージ「田代の土産、対馬の土産」
イメージ
元禄7年、宗義倫の死去
イメージ
 元禄5年(1692)6月27日、宗義倫(よしつぐ)が対馬藩4代藩主に就任した。義倫は就任からわずか2年2ヶ月である元禄7年9月27日、24歳の若さで亡くなった。父の3代藩主宗義真(よしざね)は、35年間の長きにわたって藩主として藩政にたずさわり、日朝貿易を軌道に乗せ、対馬藩政史上最大の繁栄期といえる時代を築いた。義真は53歳となった元禄5年、義倫に藩主を譲り対馬守から刑部大輔(ぎょうぶのたいふ)と改名した。義倫の年譜である「霊光院公実録」(『宗氏実録(一)』1981年)によると、義倫は同年6月右京太夫から対馬守、侍従となった。義倫は翌6年4月対馬へ初入国し、翌7年4月参勤交代で江戸に到着したが、6月には病で床についてしまった。8月、9月と幕府より見舞いの使者の田村右京太夫が使わされた。その後、義倫は9月27日に死去している。
 九博の対馬宗家文書の老中奉書からも、義倫死去前後の状況がうかがえる。9月11日には対馬守病気見舞の礼状である宗刑部大輔書状への返事として、戸田忠昌の老中奉書、柳沢保明の側用人奉書が出された。義倫が死去した直後の9月29日対馬守卒去への弔慰文である土屋政直他の老中連署奉書が残されている(写真1)。11月25日、対馬守の養子として弟の次郎(5代藩主義方よしみち)の跡職相続が許可されたが、10歳という幼少であったため、朝鮮御用は当分の間、義真が勤めることとなった。この御礼として宗家より老中へ龍紋30巻が献上された(写真2)。義倫は藩主就任期間が短かったためか、他の藩主のように老中奉書が成巻されて残っていない。
イメージ
イメージ
イメージ
(写真1)老中奉書
イメージ
イメージ
イメージ
(写真2)老中奉書
イメージ
磯野甚左衛門、田代を出発
イメージ
 宗義倫の死去により、先にみた老中奉書を始め各地から対馬へ弔問が届けられた。その1人が肥前田代領の磯野甚左衛門重利である。田代領は現在の佐賀県鳥栖市、基山町一帯に広がる対馬藩の飛び地である。朝鮮出兵の恩賞の代替地として、慶長4年(1599)対馬藩領となり、1万3千石の石高は米がほとんどとれない対馬国の重要な穀倉地帯であった(写真3)。磯野甚左衛門はここ田代領牛原村(現鳥栖市)の庄屋であり、ため池や水路を整備し耕地整理を行い、多くの水田を開いたといわれている。この磯野家の編年記録が「磯野壽延記」(『鳥栖市史資料編第2集 基肄養父(きいやぶ)実記』1969年)、正保2年から享保14年までの84年間の家や村の出来事が記されている。
 元禄7年12月1日、田代領の三郷大小庄屋が田代代官所に呼ばれ、久和弥五左衛門、吉野五郎七から次のような通達を受けた。霊光院(義倫)が死去し、御隠居刑部太輔(義真)の「御忌中御機嫌窺」として、三郷両町の惣代を小庄屋中より1人選び、対馬へ来るようにとの内容であった。三郷両町とは、田代領の領域の呼称で基肄郡上郷、下郷、養父郡の三郷、田代、瓜生野の両町で構成されていた。庄屋中で協議の結果、対馬への惣代は磯野甚左衛門に決まった。
 12月11日、甚左衛門は田代代官所へ行き、御切手御用の状箱を受け取り、吉野から鶴の吸い物と酒が振る舞われた。大工喜左衛門、甚七の2人を召し連れ6駄の荷物とともに出発したが大雪のため、原田宿(現福岡県筑紫野市)から駕籠に乗り、ようやく二日市宿(現福岡県太宰府市)にたどりつき庄屋宅へ泊まった。翌朝出発し、7つ時分博多の宿油屋三郎右衛門宅へ到着し、対馬小路(つましょうじ)にある博多蔵屋敷の蔵本大浦新左衛門へ挨拶にうかがった(写真4)
 甚左衛門は博多に逗留している間、対馬藩家中への献上、土産物を準備している。曲物(まげもの)、酒樽、練酒、素麺、どれも当時の博多名物で、同時期に貝原益軒の著した福岡藩の地誌「筑前国続風土記」にも記されている。現在、博多曲物は箱崎宮の近くで製造され、また練酒は中世から博多名物として有名な白酒で、現在復元されている(写真5)
 大雪が続く中、18日博多から乗船し西の荒戸へ、19日志賀島着、海が荒れているため21日の朝出発し玄界島へ、夜に入って壱岐の勝本に到着した。その晩月が出てから出発し、22日9つ時対馬に到着、乗船改のため羽織袴で番所へ行き、切手、状箱を提出した。
イメージ
イメージ
イメージ
(写真3)田代領の風景
イメージ
イメージ
イメージ
(写真4)対馬小路
イメージ
イメージ
イメージ
(写真5)復元された博多練酒
(写真提供:若竹酒造場)

イメージ
イメージ

イメージ
御隠居、御家中への献上
イメージ
 対馬到着後、早速22日晩には、子刻(午前0時)までかかり、家老、組頭、大目付、など27カ所へ挨拶している。23日朝、勘定方より指示があり、同道した田代領の惣代である天本吉兵衛、高野次左衛門が藩主の菩提寺である万松院へ拝礼している(写真6)。24日同じく勘定方より甚左衛門へ、郷町と自分の献上物を屋敷へ持参するようにと指示があった。郷町分として、牛蒡箱21本入、素麺曲1箱、練酒斗入樽2、甚左衛門分として蜜柑駕籠1但380個入、大牛房1折31本入を献上した。名代杉村頼母が、御隠居様へ献上品を披露し、次のような口上をいただいたと話している。「肥前田代から対馬までの遠路大儀であり、郷町の者が自分の機嫌をうかがってくれるとは大変奇特である。自分の様子も変わりないので、帰って郷町の者に伝えるように」との言葉であった。その後、宿の甚兵衛の案内で16人の藩士へ挨拶に行っている。
 27日、城の勘定所へ呼ばれていくと、寺社奉行平田所左衛門から、役目が終わったので天気がよければ出船するようにと指示があり、そして義真より下賜された金子300疋が渡された。このあと「御音物差上候御方」として、各藩士と献上品のリストが記されている。古川隼之助他7人の家老、用人3人、組頭3人、寺社奉行2人、勘定衆4人、大目付4人、鉄砲大将2人、町奉行1人へは大牛蒡1折ずつ、多田直之丞へは大牛蒡1折と5升樽1、おこま様へ大杉原1束、馬廻12人、大小姓10人は牛蒡、杉原紙、歩行衆9人は半切紙、牛蒡であった。その他、梯七朗右衛門へ諸白、妻へ辛子、万松院や西山寺へ大牛蒡など他15人、合計77人もの人々へ音物、進物を献上している。先にみた隠居への献上品とあわせてみると、牛蒡が目立つ。それ以外には博多で調えた素麺、練酒である。牛蒡は田代領の特産だった可能性がある。
イメージ
イメージ
イメージ
(写真6)万松院の唐門
イメージ
イメージ

イメージ
対馬で年越し、対馬の土産物
イメージ
 甚左衛門達は、日和が悪く対馬で年を越すことになった。元旦は八幡宮へ参拝後、登城して家中とともに藩主名代古川隼之助の年始の礼を受けた。6日は銀山に行き銀と鉛の吹き分けを見たり、7日には「神あかり」という家中の馬が勢揃いして登城する行事を、また9日には泊まりがけで浅海浦に出かけ鰯網漁、たるの浜の塩浜、曲の海士集落を見物している(写真7)
 この後、「逗留中御音信並帰国の刻御土産被下候御衆中」として、土産物と名前が列挙されている。竹森平左衛門他77人、家老の杉浦采女(うねめ)、万松院、銀山で出会った庄次郎など様々である。土産の内容は合計44品、130点となり、茶碗、茶釜、扇子などの工芸品が14品で一番種類が多く、次に鱈などの海産物10品、胡桃子などの食品、薬、衣類、文房具と続く。特に点数が多いのは茶碗17点で、朝鮮茶碗と書かれたものもあり、朝鮮からの輸入品と考えられる。また鱈も17点で、小鱈、平鱈、干鱈、丸鱈と様々に加工されている。特徴として朝鮮茶碗、朝鮮串柿、朝鮮筆、胡桃子、松実、薬品など日朝貿易による輸入品がみられる。薬品に名前がみえる清心丸と蘇合丸は、後の時代になるが1849年に洪錫謨によって書かれた朝鮮の歳時記である『東国歳時記』によると、清心丸は食あたり、蘇合丸は暑気による衰弱に効くとあり、朝鮮由来の薬であった(写真8)
 27日対馬出船、晦日博多着、2月4日田代に帰り着いている(写真9)。対馬での土産物は、三郷両町役人や扶持人へ残らず渡し、甚左衛門は茶碗と薬をもらったと書いている。対馬への旅費、土産代あわせて520目かかっている。また最後に、対馬滞在中に家老から町方衆まで、使者、手紙、見舞、音物が大変多く、筆舌に尽くしがたいと記している。
イメージ
イメージ
イメージ
(写真7)現在の曲集落
イメージ
イメージ
イメージ
(写真8)朝鮮薬種進上目録
イメージ
イメージ
イメージ
(写真9)厳原港と立亀岩
イメージ
イメージ

イメージ

イメージ
イメージ このページのトップへ
イメージ
このサイトについて::お問い合わせ::関連リンク集::サイトマップ
Copyright © 2006 Kyushu National Museums