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江戸藩邸上屋敷 対馬藩は日朝外交、貿易に携わっていたため、日本各地に蔵屋敷などの施設を持っていた。江戸には上屋敷、中屋敷、下屋敷の藩邸、そのほか京都をはじめ、大坂、博多、長崎、壱岐勝本(長崎県)に蔵屋敷、朝鮮の釜山には倭館(和館)を設置していた。今回は江戸藩邸について紹介したい。(図1) ![]() (図1)江戸藩邸の位置 江戸藩邸上屋敷は、現在の台東区台東、秋葉原と浅草橋の間にあった。もとは二長町(にちょうまち)といい、町名の由来は町内に通称「二丁町」という小道があったのに因むという。南隣は伊勢津藩藤堂家、東隣は肥前平戸藩松浦家の屋敷があった。現在、藤堂家の屋敷跡は、藤堂和泉守に因んだ神田和泉町という地名が残る。また松浦家の屋敷跡には蓬莱園という庭園跡があり、現在都立忍岡高校、柳北公園、柳北小学校となり、当時の池の一部、大銀杏が残っているという。(写真1) 対馬藩の上屋敷は、寛永4年(1625)に幕府より拝領し、『宗氏家譜略』によると、翌寛永5年6月6日に「柳原新邸成就、旅宿行安寺ヨリ移徒」とある。拝領地に建物を建設し、藩主がそれまで旅宿にしていた行安寺から移ったことがわかる。柳原とは、対馬藩邸を少し南へ行ったところを流れる神田川の南土手が「柳原土手」と呼ばれ、その対岸が「向柳原」と呼ばれていることから名付けられた。面積は14537坪(約48060平方メートル)、南北に長い長方形の敷地であった。上屋敷は、参勤交代で江戸に来た藩主が滞在し、また江戸上りの朝鮮通信使の接待もこの屋敷で行われた。朝鮮通信使の馬芸である馬上才(ばじょうさい)を老中が見物に訪れた記録もある。(写真2) 上屋敷のまわりには各藩の藩邸が多い。『台東区史』によると、寛永2年の寛永寺の創建により、当時その地に屋敷を構えていた藤堂、堀、津軽家が、代替地として現在の台東区内である下谷、浅草地域に移ったことから、大名屋敷が集中する始まりとされている。宗家もその数年後の寛永4年、早い時期にこの地に藩邸を建設したことになる。
中屋敷と下屋敷 対馬藩の中屋敷は、かなり変遷している。宝永期から文化期(18世紀初頭〜19世紀初頭)の武鑑には浅草黒船町とある。幕府の米蔵である蔵前の北、隅田川沿いの水運に便利な場所であった。その後、文政期(1820年代)の武鑑では水道橋外(現在のJR水道橋駅の北)、元矢の倉大川端(現在の日本橋浜町一丁目付近)へ移った。対馬宗家文書の中に、このときのものと思われる文政11年(1828)の中屋敷の交換に関する老中奉書が残っている。(写真3)嘉永期(1850年代)には上屋敷の西南、隅田川対岸の本所六間堀(現在の森下駅の北)に移り、面積は3217坪(約10635平方メートル)あった。東隣には江戸時代の鍼灸術の一つ、杉山流の祖杉山検校の墓のある彌勒寺(みろくじ)がある。そして北の竪川(たてかわ)を越えた松坂町は、元禄15年(1702)12月、赤穂浪士の討ち入った吉良上野介の屋敷があった。現在の国技館、江戸東京博物館の近所である。 ![]() (写真3)2行目に「中屋敷相対替」とある老中奉書 対馬藩の下屋敷は、上屋敷から北、現在の荒川区三ノ輪、東京唯一の都電、荒川線の始発駅三ノ輪駅付近にあった。この下屋敷は『宗氏家譜略』によると、寛文2年(1662)3月4日幕府から拝領し、面積7800坪(約25600平方メートル)あった。近隣には下野黒羽(くろばね)藩大関家、伊予新谷(にいや)藩加藤家の屋敷があった。それぞれの屋敷跡には、現在荒川区の史跡案内板が設置されている。(写真4) 日光街道と明治通りの交差点には、大関横丁という地名が残り、バス停の名前にもなっている。黒羽藩は1万8000石、第11代藩主の大関増業(おおぜきますなり)は羊を飼ったり、名水を科学的に証明するなど、蘭学に傾倒していた。大関横丁の由緒を記した石碑によると、増業の功績をたたえ、大正13年(1924)に正四位が贈られ、この地を大関横丁と呼ぶようになった。東京には先ほどの神田和泉町と同じく、江戸時代の大名屋敷に因んだ地名が数多く残る。(写真5)
ツバメが巣を作らない屋敷 万延元年(1860)、対馬藩士中川延良が対馬の歴史、伝承などをまとめた『楽郊紀聞』に、江戸藩邸を次のように記している。 対馬藩の家老職も勤めた杉村家の杉村但馬の話によると、上屋敷の東長屋の前に、東西に通る小溝があった。これは豊島と神田郡の境界で、溝より南は神田郡、北は豊島郡であるという。豊島の産土神(うぶすながみ)は湯島天満宮、神田は神田明神である。但馬は南の隅長屋で生まれたので神田明神が産土、御屋敷にて生まれた藩主の子息は豊島郡の方に御殿があるので、産土が湯島天満宮である、との話である(巻10「他所下」)。現在も対馬藩邸跡の南側が、台東区と中央区の境となっている。(写真6) ![]() (写真6)中央の道路が台東区と中央区の境、右手が対馬藩上屋敷跡 また江戸藩邸に長く勤める下男長五郎が、「このお屋敷はツバメが巣を作らない。私は25、6年も勤めて気をつけていたが、巣を決して見たことがない」と語ったという。続けて「小石川(水道橋外)の中屋敷にも数年勤めたがツバメは巣を作らなかった。初めからかと思ったが、最初は長屋などに巣を作っていた。しかしその後は巣を作らない。今は他家の屋敷となったがどうなったであろうか。箕輪(みのわ、三ノ輪)の下屋敷もツバメは巣を作らない」と話した。中川延良は長五郎は江戸の人で、うそをつくような者ではない、自分も中下屋敷は知らないが、上屋敷ではツバメの巣を見たことがない、と書いている(巻5「奇聞」)。 現在、ツバメが巣を作るのは珍しくなっているが、江戸時代の大名屋敷の軒先にはたくさんのツバメの巣があったのであろう。ツバメが巣を作ると縁起がいいといわれるが、宗家の江戸藩邸では巣を作らなかった。今、九州国立博物館へ向かう太宰府天満宮の参道の軒先には、たくさんのツバメの雛が巣立っている。何か理由があって、ツバメは巣を作る場所を選んでいるのかもしれない。 次回は京都藩邸について紹介する。
《次回は9月上旬掲載》
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