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無高の対馬と府中 対馬藩の城下町は対馬国府中、現在の長崎県対馬市厳原におかれ、金石屋形(かねいしやかた)と桟原屋形(さじきばらやかた)の居城があった。領地は対馬国無高、肥前基肄・養父郡1万石(佐賀県、田代領)、文化14(1817)年に肥前松浦郡(佐賀県)、筑前怡土郡(福岡県)、下野安蘇・都賀(栃木県)の2万石を加増された。対馬国は「無高」とあるように、江戸幕府から表向きは米がとれないという形で認められていた。江戸時代の大名の格式をあらわす際に使われる石高で表すと、宗家は10万石以上格となる。実際にほとんど米はとれず、朝鮮国から米1万6000石余を輸入し、藩財政のかなりの部分を日朝貿易に頼っていた。 ![]() 「対馬一円」と書かれ石高の記載がない(「寛永11年領知判物写」) 「対馬府中図屏風」を歩く 前回紹介した「対馬府中図屏風」は、江戸時代の府中を歩いている人物まで詳しく描いた屏風である。現在、九博では建物の名前や現在地を特定する作業を進めている。 2005年9月、強風の吹くなか現地を調査した。出発は宗家菩提寺の万松院(ばんしょういん)、金石屋形の大手門を脇にみて、今屋敷のかぎの手に折れ曲がる小路を抜け八幡神社へと向かう。そして大町通りを横切り遊月橋から厳原本川を渡り、天道茂(てんどうしげ)駐車場の脇を通る。屏風をみるとこの天道茂は隅に祠がある空き地として描かれているが、現在も駐車場となり空き地である。街中を抜け銭屋橋を渡ると、左手に樋口一葉の小説の指導者であり、恋人でもあった半井桃水(なからいとうすい、1860〜1926)の生家跡がみえる。
防火壁 そこで笠淵通りを北へ進むと、家と家の間に石の壁がいきなり現れた。壁は隣接する家々のエアコンの室外機や雨樋、ガスボンベに挟まれ窮屈そうである。これは火事の拡大を防ぐ江戸時代の防火壁である。積み上げられた石の一つに「天保十五甲辰正月、消防為火切築之、高一丈三尺根幅五尺」と銘文が彫られている。天保15(1844)年の正月に消防の火切りとして、高さ約4メートル、幅約1.4メートルの壁を築いたという意味である。
藤井郷石『厳原の地名手引き』によると、現在も残っている防火壁は天保後半から嘉永にかけてのものである。天保13年築造の金比羅下、弘化年中築造の国分町料亭しまもと前、今屋敷の東中州賀通り、嘉永2年築造の宮谷下裏町、嘉永4年築造の田淵新中町と宮谷下裏町を合わせて7ヶ所である。この笠淵周辺は中村と呼ばれ、現在武家屋敷を生かした「石塀と武家門の中村」として街づくりを進めている。 大歳神社 防火壁から笠淵通りを進むと、荒神橋のたもとに大歳(おおとし)神社がある。祭神は大歳神、興津彦神(おきつひこのかみ)、興津姫神(おきつひめのかみ)を祀っている。『古事記』によると、奥津日子神(おきつひこのかみ)と奥津比売命(おきつひめのみこと)の両神が、「諸人の以ち拝く竈(かまど)の神」とあり、以来竈神、荒神、火の神として信仰を集めた。貞享3(1686)年、この笠淵で大火事があり、それを機に防火の神、火の守護神として現在地に移ったといわれている。この辺りは家々が密集し、火事が多く大歳神社、そして防火壁が築かれたのであろう。 府中は万治2(1659)年の大火後に新しく町割りがなされ、対馬藩は島内各地に住んでいた家臣を集め、その際に武家屋敷を整備し本格的な城下町として出発した。火事と関わりの深い街なのである。
東シナ海の武家屋敷 この防火壁や武家屋敷の石塀は、対馬で採れる頁岩(けつがん)を積み重ねたものである。頁岩とは薄くはげやすい性質をもった泥質の岩である。以前は一般の家や倉庫の石屋根にも使われていた。また五島の福江の武家屋敷も同じように石塀で囲まれている。福江の場合は石塀の上にこぶし大の石が積んであり、争いがあった際にはその石を投げて応戦したといわれている。鹿児島の知覧や宮之城などの武家屋敷、沖縄の首里や各地のグスクも石塀であった。 武家屋敷というと、近世の城郭と同じく白漆喰の壁をすぐに思い浮かべてしまう。しかし対馬をはじめ東シナ海に面した九州地方の武家屋敷の特色は石塀である。石塀が広まった理由として、資材としての頁岩が多く採れること、火事を防いだり武器として投石するためなどが考えられる。対馬府中は、石に由来する歴史がいくつも積み重なり、現在も石の街というイメージを作り出している。 次回は、対馬藩の江戸や京都、長崎にあった藩邸と屋敷について紹介する予定である。
《次回は5月上旬掲載》
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