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イメージ 連載:宗家文書入門 〜交流の海峡、海の記憶〜 第一回
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イメージ 東 昇
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イメージ対馬の宗家
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強風のなか
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 対馬へ向かう飛行機は毎回揺れる。玄界灘の上を飛ぶため、大陸からの風の影響を受けやすく、対馬空港に着陸する直前の絶壁にぶつかりそうな感じがする。一番最初に搭乗した時は初春の3月、強い北西季節風とプロペラのYS機であったため、かなり揺れたのを思い出す。今回の旅もやはり風が強く、島内でも台風のような風が吹いていた。
 対馬を訪れるのは4回目となる。最初は、民俗学者宮本常一にあこがれて企画した大学のゼミ旅行であった。北は鰐浦(わにうら)から南は久田(くた)のお船江まで、島内を4日間かけてまわった。浅芽湾(あそうわん)を望む金田城(かねたのき)、伊奈の鯨組の墓、海神神社(わだつみじんじゃ)、豊の砲台跡など、古代から近代までそれぞれの時代の雰囲気がよく残っていた。長崎県対馬歴史民俗資料館では宗家文書の収蔵庫を見学し、その膨大な量に驚いたが、その時は、将来宗家文書の仕事に就くとは夢にも思っていなかったのである。
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宗家文書とは
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 宗家文書は、江戸時代の対馬藩(現長崎県対馬市)の藩主宗家に伝わった文書である。宗家は、室町時代から江戸時代にかけて、日本と朝鮮の間で外交の実務と貿易を独占し、日朝関係史上、大変重要な役割を果たした。宗家は対馬藩庁、江戸藩邸、釜山倭館(わかん)の各地に拠点を置き、広範囲に活動していた。
 九州国立博物館(以下「九博」)が所蔵している宗家文書の指定名称は「対馬宗家関連資料」(以下「宗家文書」)、2005年の6月に国の重要文化財に計14078点が指定された。その内訳は印章(図書・木印)37点、朝鮮国書契・書簡16点、文書・記録類13780点、書画・器物類200点、文書箱45点となっている。明治以降の文書など指定されなかった663点を含めると、九博には合計14741点にものぼる膨大な宗家文書が所蔵されている。それぞれの内容については、今後紹介していきたい。
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宗家文書は箱に収められて伝来した
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宗義質が14歳のときに描いた竹の絵
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 この宗家文書は、九博以外に各地に分散して所蔵されている。収蔵点数の多い順番に紹介すると、長崎県立対馬歴史民俗資料館(長崎県対馬市)約36000点、大韓民国国史編纂委員会(大韓民国)約28000点、東京大学史料編纂所(東京都)約3000点、国立国会図書館(東京都)約1600点、慶應義塾図書館(東京都)約1000点、東京国立博物館(東京都)約160点である。九博所蔵分もあわせて、7箇所の合計は約84760点、いまだ未調査のものもあり、今後の調査で10万点をこえる可能性が出てきている。
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「対馬府中図屏風」
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 九博所蔵の宗家文書の中に「対馬府中図屏風」がある。縦88.2×横181.8、6曲1隻の小さな屏風である。江戸時代の対馬藩の城下町府中を描いた屏風で、北は対馬藩主宗家の居所の桟原(さじきばら)屋形から、南は厳原湾(いづはらわん)までを含む鳥瞰図である。絵師の目線をたどると、府中の東に位置する後山に登って描いたものと推測できる。小型なのは、常に藩主の手元に置いて、非常時にはさっと持ち出せるという携帯性を重視したためだろう。府中の街を詳細に描かれており、現在は建物の名称や現地の特定作業を進めている。
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「対馬府中図屏風」
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 歴史を紐解くと、宗家はずっと府中にいたのではない。1468年(応仁2)、宗貞国(さだくに)が対馬の佐賀(さか)から国府(府中)に移ったことより始まる。府中とは対馬国の国府があった所である。宗家は鎌倉時代から明治時代まで、対馬などを支配した北部九州の豪族、大名であった。出自は平知盛(とももり)の後胤説もあるが、大宰府の役人であった惟宗(これむね)氏が武士化したといわれている。宗家は鎌倉時代には対馬国の地頭代、南北朝末期には対馬国の守護であった。15世紀初頭までは、筑前国宗像郡(福岡県宗像市)に本拠をおき、筑前国の守護代を兼ねていた。1408年(応永15)に対馬国上県郡佐賀(長崎県対馬市)に本拠を移した。
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対馬の宗家
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 対馬における宗家の活動は、1274年(文永11)のモンゴル襲来で対馬国地頭代の宗資国(すけくに)が対馬で戦死したころから明確になっている。そして対馬移住以降、日本と朝鮮の外交や貿易に携わるようになり、1443年(嘉吉3)、宗貞盛(さだもり)は朝鮮と癸亥約条(きがいやくじょう)(嘉吉条約)を結び、特権的地位を獲得、16世紀中ごろには島外の朝鮮通交者の権利(図書)も集中し、朝鮮貿易をほぼ独占した。
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図書、朝鮮との通交を許可された人物の名前が彫られている
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 1587年(天正15)宗義調(よししげ)は、豊臣秀吉の九州平定によって服属し、1590年宗義智(よしとし)は朝鮮通信使来日の功により、従四位下侍従(じじゅう)・対馬守に任ぜられ、以後その官位が宗家の慣例となる。宗義智は朝鮮出兵回避のため努力したが、開戦となり、その結果日朝貿易は中断する。その後、日朝国交回復に努めて、1609年(慶長14)己酉約条(きゆうやくじょう)で貿易を再開し、江戸時代を通じて日本と朝鮮における外交の実務と貿易を独占する。宗義真(よしざね)は1635年(寛永12)、柳川一件に勝訴、また藩政改革を実施し近世大名となった。近世の宗家は外様大名として15代続いた。宗家は鎌倉時代から江戸時代まで、長期間に渡って対馬の島主であり領主であった。
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宗義章の侍従任官の宣旨(「天保10年宣旨」)
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次回は、対馬藩と府中について現地の調査もまじえながら紹介する予定である。
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《次回は3月初旬掲載》
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イメージプロフィール:
東昇(ひがし・のぼる)
九州国立博物館文化財課資料管理室研究員
収蔵品管理、図書、情報システム、対馬宗家文書データベース、WEBを担当
キリスト教、対馬、宗家文書、長崎、開国の展示担当
日本近世史専攻 宗門改制度、天草地域の研究
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