メインロゴ 九州国立博物館
メインロゴ 九州国立博物館
メニューバー01 メニューバー02 メニューバー03 文字 変更 文字 小 文字 中 文字 大
トップページ
お知らせ
展示情報
催し物
ご利用案内
収蔵品ギャラリー
データベース

よくあるご質問

Webオリジナル ろじ


ろじ[路知]
......................
第一回
第二回
:ページ印刷
連載:異国由来の名菓たち - 九州の菓子を訪ねて 第二回

橋爪伸子

鶏卵素麺

 鶏卵素麺は、溶いた卵黄を沸騰した砂糖蜜の中へ細く流し入れて糸状に熱凝固させたものである。南蛮菓子の一つで、起源はポルトガル語の「フィオス・デ・オヴォシュ(fios de ovos)(卵の糸)といわれ、ポルトガルにおいては現在も菓子店で計り売りされるほか、祝事における菓子の飾りなどに使われる。またポルトガルの植民地だったマカオや、貿易の拠点タイにも同様の菓子があり、例えばタイでは「フォイ・トーン(foi thong)(金の糸)とよばれている。

 日本においては、室町末期に伝来して玉子素麺とよばれ、江戸期には寛永20年(1643)刊『料理物語』を始めとした初期の料理書に収録されている。例えば元禄2年(1689)刊『合類日用料理抄』では、鶏卵50、あひる卵5の黄身を木綿で漉してよく合わせ、上々大白砂糖4斤、水2升を煎じて、「蟹泡と申が立候時、卵のからに能かげんに穴をあけ、おとし申候」とある。他の料理書でも材料、製法はだいたい同じであるが、卵黄液を砂糖蜜に落とす道具が異なり、延享3年(1746)写「黒白精味集」では「御器の底に」、天明5年(1785)刊『万宝料理秘密箱』では「竹の筒のふしの薄きに」穴をあけて用いている。

 現在は博多名菓といわれ、松屋菓子舗(博多区上川端町:以下松屋)、石村萬盛堂(博多区須崎町)等でつくられている。博多名菓としての起源は、福岡藩士貝原益軒による元禄16年(1703)の地誌『筑前國續風土記』の「土産考」に、「玉子素麺 牛蒡餅 油堆、右三品、博多に古来傳へて製す。他邦になし。長崎又他国より習て製するといへとも当国の製に及はす(後略)」とある。材料は当時貴重だったが、福岡藩の鶏卵は特産物で、また白砂糖は長崎から調達可能だった。しかし、享保5年(1720)の『長崎夜話草』では、長崎の名物とも記されている。なお上記の松屋は、第12代当主松江國秀氏によれば、博多商人大賀の番頭だった同店の始祖松江利右衛門が、長崎で明人から玉子素麺の製法を伝授されたと伝えられ、延宝元年(1673)に創業し、福岡藩の御用菓子屋を務めた。

 江戸中期以降に刊行された菓子製法書、享保3年(1718)刊『御前菓子秘伝抄』、宝暦11年(1761)刊『御前菓子図式』、天保12年(1841)刊『菓子話船橋』等に玉子素麺は収録されてはいないが、幕末、奥向に仕えた福岡藩士の記録「萬菓子作様并香物漬様薬酒造様之事」(福岡県地域史研究所蔵)には極めて詳細なつくり方が記されている。そこには他にも鶏卵、砂糖、油等滋養のある食材や、薬効のある香辛料を使う種々の飲食物が記されていることから、鶏卵および玉子素麺の高い滋養が注目されていた可能性がある。鶏肉についても当時は現代のように一般的ではなかったが、熊本藩士による文化14年(1816)の飲食物製法書「歳時記」(熊本県立大学文学部蔵)では、現在の博多水炊きと同様の骨付きぶつ切り鶏肉の水炊き「カシハメンドリ仕立」のつくり方に「筑前殿藩中御藩中伝」とあり、福岡藩から伝授されたことが付記されている。また香川出身の勤王志士日柳燕石による弘化元年(1844)の九州紀行「旅の恥かきすての日記」では、同年4月13日に筑前博多で鶏を煮てもてなされ、「筑前にてはにわとりを多く食す」と記している。筑前における鶏卵、鶏肉食の背景には養生思想の浸透が考えられる。

 さて明治期、内国勧業博覧会では、明治14年(1881)の第2回に福岡県から初めて菓子が出品され、松江利園(松屋)が玉子素麺を「鶏卵素麺」として出品した。その後、同18年(1885)刊『筑紫名所豪商案内記』に、松江利右衛門が「本家名産鶏卵素麺製造所」と掲載され(図1)、他にも鶏卵素麺を製造販売する博多の菓子商3名が出ている。また同31年(1898)の『日本全国商工人名録』には筑前国の菓子商8軒が掲載され、そのうち掛町の寶来屋には「筑前名産鶏卵素麺」とある。玉子素麺は明治前期のうちに鶏卵素麺と名を変え、江戸期より引き続き筑前博多の名産となった。その後、明治38年(1905)には上記石村萬盛堂の創業等、製造者がさらに増え、名産として定着していった。

イメージ
イメージ
(図1)「本家名産鶏卵素麺製造所 御菓子商 博多中間町 松江利右衛門」川崎源太郎編『筑紫名所豪商案内記』川崎利吉、1885(松屋所蔵)

 現在松屋では、空調完備された専用の一室で、氷砂糖と新鮮な卵を用いた鶏卵素麺がつくられている。まず、氷砂糖を火にかけ溶かして蜜をつくり、その温度や沸騰状態を調整する。底に2つ穴のあるステンレス製筒(図2)の穴を指でふさいで卵黄液を入れ、沸騰蜜の上から鍋の外周に沿って円を描くように卵黄液を落す(図3、松屋ではこの操作を「素麺を流す」という)。火が通った鶏卵素麺を箸と木杓子で形を整えながら蜜からあげる(図4)。余分な水分をきり(図5)、両端を切り揃え製品化する。

イメージ
イメージ
(図2)卵黄液を蜜に流す道具(松屋)
イメージ
イメージ
イメージ
(図3)松屋における「鶏卵素麺」の製造工程 鶏卵素麺を流す
イメージ
イメージ
イメージ
イメージ
(図4)同上 鶏卵素麺を蜜からひきあげる
イメージ
イメージ
イメージ
(図5)同上 余分な水分をきる
イメージ

 作り方は江戸期の料理書とほぼ同じであるが、卵黄液を蜜に落す道具が変遷した。明治にいたるまでは前出の『万宝料理秘密箱』と同様の竹筒の節に錐穴を一つあけたものだったが、大正年間に同形の金属製、戦後に現在のステンレス製となった。また、仕上げの形状は従来の「鶏卵素麺」(1束約21×6センチ、図6)のほか、細く束ねて一口大に切り中央を細切昆布で束ねた「たばね」(約5×2センチ、図7)、その片端をすり蜜でかためて季節の花に見立てた「福寿草」(1〜2月)・「菜の花」(3〜5月)・福岡県花の「芙蓉」(8〜9月)等、季節限定の鶏卵素麺製品もつくっている(図8)。「福寿草」には大徳寺納豆が、「芙蓉」にはすり蜜に露生姜が入っている。これらの一口大の鶏卵素麺は、昭和40年(1965)頃から茶湯の濃茶に使う菓子として食べやすい形状に開発されたとのことである。

イメージ
イメージ
(図6)「鶏卵素麺」(松屋)
イメージ
イメージ
イメージ
(図7)「たばね」(松屋)
イメージ
イメージ
イメージ
イメージ
(図8)季節限定鶏卵素麺製品(松屋)。左から「福寿草」(1〜2月、中に大徳寺納豆が1粒入っている)、「菜の花」(3〜5月)、「芙蓉」(8〜9月)

 鶏卵素麺は福岡以外に大阪の御菓子司鶴屋八幡(中央区今橋:以下鶴屋八幡)、京都の鶴屋鶴壽庵(中京区壬生梛ノ宮町)でも常時製造販売されている。鶴屋八幡では、同営業企画部岩橋義春氏によると、元禄15年(1702)創業の上菓子屋、大坂高麗橋の虎屋大和大掾藤原伊織(以下:虎屋伊織)を前身とし、文久3年(1863)第9代当主竹田七郎兵衛から今中伊八が同店を引き継ぎ、同じ高麗橋に創業した。鶏卵素麺は長崎から大坂へ伝わったとされ、虎屋伊織から引き継いで鶴屋八幡の創業当初からつくっているが、昭和以降店頭販売を始める前は受注製造だった。菓子名については、虎屋伊織の寛政3年(1791)の「菓子栞」に「玉子素麺」、鶴屋八幡の明治初年の「菓子帖」に「鶏卵素麺」と記されている。仕上げの形状は博多のように両端を切らず綛(かせ)(約20センチ、図9)で、現在卵黄液を流す道具は、頂点に穴のあるステンレス製の円錐形器具を用いている。なお鶴壽庵は昭和40年(1965)創業し、親戚関係にある鶴屋八幡と同じ方法で鶏卵素麺をつくっている。

イメージ
イメージ
(図9)「鶏卵素麺」(鶴屋八幡)
イメージ
イメージ


 鶏卵素麺は南蛮菓子として伝来当時は広く知られたが、その後限られた地域に存続した。大阪に現存する背景は不詳であるが、その要因は近代の滋養衛生の流行と、大都市における高い需要が関係しているかもしれない。

参考文献
智子ドゥアルテ著、松翁軒企画『ポルトガルのお菓子工房』成星出版、1999。
山田均『世界の食文化』5タイ、農山漁村文化協会、2003。


このページのトップへ

このサイトについて::お問い合わせ::関連リンク集::サイトマップ
Copyright © 2006 Kyushu National Museums