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聞くから見るへ、大形化で威儀示す ![]() 東京国立博物館には、江戸幕府お抱え絵師、狩野晴川院養信(かのうせいせいいんおさのぶ)(一七九六―一八四六)によって描かれた「戸山荘地取図」という一巻の絵図が所蔵されている。これは尾張徳川家の下屋敷であった戸山屋敷(現在の東京都新宿区戸山)の様子を描いたもので、庭先にわざわざ作ったかに見える門形の柱に銅鐸をつり下げた場面がある。この銅鐸は周りの木や建物と比較するとかなりの大形とみられ、形状から、弥生時代に使われた銅鐸の歴史の中でも最末期の特徴を持つものといえる。 ところで九州国立博物館でも現在二点の銅鐸を所蔵している。この二点は、弥生時代の終わりに近い二―三世紀ごろのものだが、その一つがこの突線鈕袈裟襷文銅鐸である【図1】。 高さは一一〇センチ、裾(すそ)の最下端幅は四二センチ、重さは三五キロほどもある。鈕の部分に渦文(かもん)と呼ばれる蛙の目玉のような飾りが三個、両側外縁に弧状の飾りが六個ある。裾の一部は三角形状に失われている。この銅鐸が、いつどこで発見されたかわかってないのだが、第二次世界大戦後までは江戸幕府将軍の徳川家に伝来したものだという。 狩野養信の絵図に描かれている銅鐸と九博所蔵の銅鐸とを見比べてほしい。両者の形が良く似ていることが分かるだろう。そして両者共に徳川家ゆかりの品である。九博の銅鐸を観察すると吊(つ)り手穴の周囲が黒く変色し鐸身上面が一部破れ鈕全体が傾いている【図3】。これは無理に吊り下げられたため壊れた可能性がある。こうした推測が正しければ、九博所蔵の銅鐸は「戸山荘地取図」に描かれた銅鐸と実は同じものである可能性が高い。 「突線鈕式銅鐸」は近畿地方を中心に分布するため「近畿式銅鐸」とも呼ばれるが、最末期にはさらに東海地方にまで分布範囲を広げている。絵図の銅鐸が九博所蔵の銅鐸と同じものであれば、江戸時代に尾張徳川家の領内で発見され献上されたものであったのか? 絵図には、この銅鐸の由来を解く鍵が隠されていそうである。ならば、江戸時代には何のために銅鐸を吊り下げたのか? この銅鐸の表面には顕著な打撃痕跡が見られない。このことから私は、カネとして鳴らしたというよりは、むしろ観賞用として吊り下げた場合の方が多かったのではないかと推測している。 銅鐸のルーツは、中国中原地域の殷周青銅器文化で使われた鈴・鐘にあると考えられている。これが紀元前四―前三世紀ごろ中国東北部から朝鮮半島にかけて伝わり、日本列島の銅鐸の直接的祖先である「朝鮮式小銅鐸」となった。小銅鐸という名前のように、その大きさは高さ一〇―一五センチ程度であり、内側に吊り下げ、鐸と触れて音を出す舌(ぜつ)も見つかっている。そしてこの舌があたる銅鐸の裾端には、本体を補強したり、音により厚みを出すためでもあろう一条の凸帯が巡らされているものがある。 朝鮮式小銅鐸は、弥生時代中期までには日本列島に伝えられた。日本最古の銅鐸がどこで作られたのかは九州説、畿内説の二つの説が有力であるが、二〇〇四年十二月、名古屋市内で最古級の銅鐸鋳型が発見され、最初の生産地について新たな謎が生まれたことは記憶に新しい。その後、銅鐸は大形化するが、その内面下方には舌と銅鐸とが盛んに接触したために摩滅した凸帯が見られることから、音を出す「聞く銅鐸」として使われたことが分かる。しかし「突線鈕式銅鐸」が出現する弥生時代後期には、こうした摩滅が観察できなくなるとともに、鈕や銅鐸本体も吊り下げるには不具合なほど大形化してしまい、「見る銅鐸」へと性格が大きく変化してしまった。 なぜ大形化したのか? 理由の一つは使い方の変化によるとするもので、銅鐸が発する音を聞くためならば銅鐸の大きさは重要ではないが、存在自体で祭器としての威儀を示すには、巨大化させ飾り立てる必要があったとする説である。もう一つは、銅鐸だけでなく、北部九州で祭器として使われた銅矛も大形化することから、互いに影響を受けたとする説である。 だが、巨大化しても銅鐸内面には本来音を出すための凸帯が作り続けられ、痕跡器官となって残っている【図3】。最末期の九博所蔵の銅鐸にも、この内面凸帯のように数百年間の歴史の痕が残されているのは興味深い事実ではなかろうか。 九州国立博物館での展示を通じて、銅鐸祭祀(さいし)の歴史を垣間見ていただければ幸いである。
□ キーワード □案内人 小林公治(こばやし・こうじ) 九州国立博物館学芸部企画課文化交流展室長 |
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