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イメージ いにしえの旅 : No.09

イメージ三角縁三神三獣鏡(さんかくぶちさんしんさんじゅうきょう)
畿内説の「霊鏡」なぜ福岡から出土
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イメージ鏡の縁の4分の1が欠けているが、出土当時の模写図では完形だった
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 それは、とある鏡の出土から始まった。一八八五(明治十八)年、福岡県早良郡姪浜村(現・福岡市西区姪浜)在住の帆足可楽氏は、自分が所有する同県那珂郡三宅村老司(現・福岡市南区老司)の通称「城の辻山」の発掘に着手した。この山は石ばかりで樹木がなく、頂は三十坪(約百平方メートル)余りの平坦(へいたん)地で二本の老松が樹立するのみ。しかも、冬には雪が積もらない不思議な山として地元では伝えられていた。発掘を開始すると、予想どおり多量の石が出てきたが、何やら屋根の形に積んであって人工的な構造物のようだ。さらに一間(約一・八メートル)ほど下に掘り進めると、赤土に炭や灰を突き固めた硬い土の層が出てきた。その下には一抱えもある丸石がある。彼は、これぞ何かの目印と意を強くし、さらに掘り進めた。そして、開始してから二間(約三・六メートル)ばかりも掘り進んだところであろうか、ついに錦で三重に包まれた鏡一面とその上に置かれた鉄剣一本を発見した。さらに発掘を進めると、鏡の破片三枚と銅製の矢尻一点を見つけたのだ。この古墳は、「卯内尺古墳(うないじゃくこふん)」(現在は消滅)として知られている。
 さて、これらの発見物は規則にしたがって、警察署へ届けられた。警察は、一年間預かり置いたが持ち主は現れず、翌年、返却された。鉄剣は錆(さ)び朽ちて原形をとどめなかったが、鏡は完全な形の優品であり、口伝えで徐々に鏡の評判が高まってきた。この事態をマスコミが見逃すはずがない。一八八七(明治二十)年から「福陵新報」「福岡日日新聞」(いずれも西日本新聞の前身)「日本の少年」などで続々と関連記事が報道された。このように世評が盛り上がれば、鏡をぜひ譲ってもらえないかという希望者が続出、遠くは関西方面からも寄せられた。果ては、盗もうとするものまで現れる。一八九三(明治二十六)年二月九日の「福岡日日新聞」によると、夜に何者かが侵入し、例の鏡を盗んだものの偽物を箱に入れて予防していたために事なきを得た、という。
 「土深く掘り得し鏡見る度に ふるき昔の忍ばるるなり」「曇りなき御代の光をみつくりの 那珂の山より出し鏡かな」
 当時、この鏡を題に歌が詠まれたことを見ても、福岡の熱狂ぶりが分かる。世は日清戦争に向けた軍靴の音が高まり、鏡は霊鏡として祭り上げられ、その出土は国家がますます隆盛する瑞祥としてとらえられたのである。
 果たせるかな、宮内省の監査会議でも多くの称賛を浴びて、八月二十六日付で全国宝物参考簿に登録する旨の書状が発行された。発行者は九鬼隆一。岡倉天心、フェノロサとともに日本美術研究の草分けであり、帝国博物館総長まで勤め上げた人物である。その後、東京秋季好古会にも出品され、久米邦武や坪井正五郎などの並み居る当時の歴史学・考古学の大家をうならせた。こうして、鏡は凱旋帰福したのであった。この鏡、現在の考古学では三角縁三神三獣鏡と呼ばれているものだ。
 今を去ること千五百年、日本列島に巨大古墳が築造されていたころ、鏡は化粧道具であると同時に、太陽光を反射して死せる王の再生を祈るための、まじないの道具であった。そもそも三角縁神獣鏡とは、古墳時代の初め(三―四世紀)に、近畿(奈良県、京都府、大阪府)の古墳から集中して出土する、直径二十三センチ程度の銅鏡である。これは鏡の縁の断面形が三角形で、鏡の背面(物を写さない側)に神や獣の像を持つ。
 この鏡が重要なのは、同じ型で製造された鏡が南九州から東北南部にわたって五百面ほどが出土した点。大和の政権が中国から入手した貴重な鏡を地方支配の承認として下賜(かし)したものと考えるのが考古学界では通説だ。一方、日本で製造されたとの説もあり、議論百出。
 いずれにせよ、この三角縁神獣鏡は邪馬台国畿内説の根拠となっている。だが、なぜ福岡市内の古墳からも出土しているのか…? 九州国立博物館では、邪馬台国論争の重要な資料として光を当てたい。
□ キーワード □
卯内尺古墳
現在の老司中学校(福岡市南区)と福岡少年院(同)の間にあったとされる古墳。今では土取りで完全に消滅したが、1991年の福岡市教委埋蔵文化財センターによる事前の発掘調査で全長70メートルを超える規模の、北部九州有数の古墳であったことが分かった。ただし、鏡が出土した主体部は調査時に既に破壊されており、明治年間の記録文書しか手がかりがなく、謎の前方後円墳といえよう。
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案内人 河野一隆(かわの・かずたか)
九州国立博物館学芸部文化財課資料管理室長
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