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親鸞聖人750回大遠忌記念 『本願寺展』 - 親鸞と仏教伝来の道 - 平成19年9月22日(土)〜11月18日(日) 特別展示室 ![]() 本願寺(西本願寺)は、浄土真宗本願寺派の本山として、古今にわたる篤い信仰を集めてきました。平成23年(西暦2011年)には、親鸞聖人750回大遠忌を迎えます。本展観はこの大遠忌をひかえた記念事業の一環として開催されるもので、数ある本願寺ゆかりの文化遺産と美の中から、国宝4件、重要文化財24件を含む約130件が一堂に会します。九州の地にあっては、本願寺の至宝を大規模にご紹介する、初めての展観となります。 開祖親鸞聖人および歴代門主の肖像・絵伝や、浄土真宗の教義を体系的に表し、後々の布教に大きな役割を果たした根本経典である「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」など、み教えとご尊影に接していただける貴重な機会となりましょう。 また「国宝本願寺本三十六人家集」に代表される雅やかな古筆、堂宇・書院の室内を飾る荘厳華麗な障壁画群など、700年を超える歴史の中で結集した美の遺産の数々をご覧いただけます。 さらに、本願寺第22代門主・大谷光瑞(こうずい)師は、インドを発して東漸(とうぜん)し日本にたどり着いた仏教の道を西域に求め、3次にわたって探検隊を派遣しました。この大谷探検隊による西域探訪の成果は、多くが龍谷大学の所蔵となり、現在もたゆまない研究が続けられています。これら西域仏教文化資料と探検隊の足跡をご紹介します。
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第1章 親鸞聖人の事蹟と信仰 親鸞は平安時代末期の承安三年(1173)、藤原氏の流れをくむ日野氏の子として京都に誕生した。9歳で出家して後20年、比叡山で天台僧として修行するが、旧来の仏教に限界を感じ、当時京都・吉水の地で専修念仏(せんじゅねんぶつ)(阿弥陀仏に帰依し、念仏を専らにする)を説く法然の門下となり、以後師の教えや浄土教の学究につとめた。35歳の時、専修念仏に対する弾圧により、法然は土佐、親鸞は越後に流罪となる。建暦元年(1211)法然とともに罪を許されて程なく師が入寂、親鸞は東国に向かい、約20年にわたり布教を行う。この東国在住中に、主著である『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の執筆に着手し、浄土真宗の教義と思想を確固たるものとしていった。60歳を過ぎ、東国より京都に移住して後は、著述や注釈に力を注ぎ、和讃や文書によって、門弟や信者たちへの布教を精力的に行った。弘長2年(1262)11月28日、京都三条富小路の堂坊にて、90歳の生涯を閉じた。 ここでは親鸞の肖像[御影(ごえい)]、生涯を描いた絵伝、浄土教学への深い学究や、浄土真宗の教えが著された聖教類をご紹介する。 □ 主な作品 ![]() ![]() 国宝 観無量寿経註(かんむりょうじゅきょうちゅう)・阿弥陀経註(あみだきょうちゅう) 2巻 親鸞筆 鎌倉時代 本願寺蔵 展示期間 観無量寿経註 9/22〜10/21 阿弥陀経註 10/23〜11/18 (いずれも期間中場面替あり) 阿弥陀仏とその浄土について説く代表的な3部の経典(浄土三部経)のうち、『観無量寿経』と『阿弥陀経』の本文を書写し、行間や余白などに註を加えている。29歳で法然の門下となった時期から、専修念仏の禁圧によって35歳で越後に配流されるまでの間に著されたとされる。浄土教の学究に渾身を注ぐ壮年期の姿と、その学識の深さが、行間や天地の余白、紙背にいたるまで、全面にわたって細密に書き込まれた註記からうかがい知れる。(上段が観無量寿経註・下段が阿弥陀経註) ![]() 重要文化財 親鸞聖人像(しんらんしょうにんぞう)熊皮御影(くまがわごえい) 1幅 南北朝時代 奈良国立博物館蔵 展示期間 10/23〜11/18 首に白い帽子(もうす)を巻き、墨染(すみぞめ)の袈裟(けさ)をまとって上畳(あげだたみ)に坐す姿を描いた御影(ごえい)(肖像)である。足下の敷物の毛が、黒に白の混じった剛毛ふうに表現され、それが熊皮のようだというので「熊皮御影」とも呼ばれている。威儀をただして数珠をつまぐるさま、吊り上がった眉、鋭いまなざし、深く刻まれた皺は、厳しいまでに信仰を追求した親鸞の姿をいきいきと伝えており、画面には緊張感がみなぎっている。 親鸞の遺骨が京都・東山の大谷に葬られて10年後、師の遺徳をしたう門弟たちによって墓所が整備され、文永9年(1272)、廟堂[大谷廟堂(おおたにびょうどう)]が営まれた。鎌倉時代末期、第3代覚如(かくにょ)は廟堂の寺院化をはかって「本願寺」を称し、本願寺の基礎を築き上げる。以後歴代の門主たちが開祖親鸞の脈流を継承していく中で、第7代存如(ぞんにょ)はより活発な布教を行い、さらにその長男蓮如(れんにょ)が第8代を継承すると、積極的な伝道活動によって、教線は大きな広がりをみせ、その勢いは九州の地にも及んでいる。こうしてめざましい発展を遂げた本願寺と教団の社会的地位は高まり、第10代証如(しょうにょ)、第11代顕如(けんにょ)の時には朝廷や有力大名との交流を深めていった。その一方で、織田信長との対立、たび重なる寺の移転などが遠因となり、本願寺は東西に分立することとなる。 □ 主な作品 ![]() 重要文化財 慕帰絵(ぼきえ) 巻第1・巻第8 (巻第1)室町時代文明14年(1482) (巻第8)南北朝時代観応2年(1351)本願寺蔵 展示期間 全期 (いずれも期間中場面替あり) 慕帰絵は本願寺第三代覚如(かくにょ)(1270〜1351)の生涯を、10巻にわたって描いた絵巻である。詞書(ことばがき)(文字)の部分を編んだのは、覚如の次男従覚(じゅうかく)(1295〜1360)で、題には「帰寂(きじゃく)(逝去)した父を追慕する」という意味がこめられている。制作には当時名だたる複数の絵師、能筆(のうひつ)があたった。巧みな筆づかいと配色、細部に目配りした生彩のある描写が注目される。写真は巻第8で、絵師は藤原隆章(ふじわらのたかあき)、詞書は二条為重(にじょうためしげ)。 ![]() 重要文化財 歎異抄(たんにしょう) 2巻 蓮如(れんにょ)筆 室町時代 本願寺蔵 展示期間 上巻9/22〜10/28 (期間中場面替あり)下巻 10/30〜11/18 本文の著者は親鸞の直弟子であった唯円(ゆいえん)とする説が有力。前半10章までに師の親鸞から直接聞いた法語を記し、後半の8章ではその頃に行われていた異説を指摘し、結びに親鸞の教えを正しく受け取ることを願って本書を記す旨を述べている。 第3章「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の悪人(あくにん)正機説(しょうきせつ)は著名。本書は蓮如自筆写本で、『歎異抄』の最古写本であり、蓮如の花押(かおう)のかたちなどから文明年間(1469〜87)の書写と推測される。 本願寺にはその時どきに、豊かな芸術文化がはぐくまれ、珠玉の美術工芸がもたらされてきた。本章では、こうした本願寺ゆかりの至宝をご紹介する。 本願寺は室町時代中期、天皇家の勅願寺(ちょくがんじ)となり、第10代証如(しょうにょ)の時代には宮廷や公家・武家との関わりをいっそう深めた。この時期に、国宝「本願寺本三十六人家集」や国宝「熊野懐紙」など、宮廷文化の粋をきわめた名筆の数々が伝えられている。 茶の湯もまた、本願寺の芸能史上重要な位置を占める。「慕帰絵」に描かれるように、早く第3代覚如の時代から、茶の文化がはぐくまれてきた。室町時代後期、大坂・石山の地にあった本願寺[石山本願寺(いしやまほんがんじ)]に伝来したとの伝承をもつ茶器類は「本願寺名物」と呼ばれ、現在でも珍重されている。江戸時代初期には、藪内(やぶのうち)流の2代月心軒真翁(げっしんけんしんおう)が本願寺13代良如(りょうにょ)に茶を献じ、以来藪内家は同寺の茶家となって今に至っている。 天正19年(1591)現在の地に移転した本願寺では、伽藍の整備が進められ、堂宇(どうう)や書院など壮麗な建築物が次々と建立された。その室内を荘厳する障壁画類もまた圧倒的な質・量を誇り、内容も豪華絢爛な桃山時代狩野派の余韻を伝える江戸初期のものから、瀟洒(しょうしゃ)な京都画壇のおもむきを示す江戸後期のものまでと多彩である。 □ 主な作品 ![]() 国宝 本願寺本三十六人家集(ほんがんじぼんさんじゅうろくにんかしゅう) 6冊(貫之集上・齋宮女御集・重之集・元輔集・能宣集下・小町集) 平安時代後期(小町集は江戸時代) 本願寺蔵 展示期間 全期(期間中頁替あり) 三十六人家集は、奈良〜平安時代にわたる著名な歌人三十六人とその詠歌を選んで書写された歌集。本願寺に伝来する一群は、歌集をほぼ完備する平安後期の最古写本であるにとどまらず、様々な料紙(りょうし)をとり混ぜ、継ぎ合わせ、さらに金銀で文様を表すなど、料紙装飾の粋を駆使し、当時の能書家による優雅な書体と見事な調和を奏でて比類ない。王朝文化の美意識を体現し尽くした、まさに孤高の存在。天文18年(1549)後奈良天皇から本願寺に贈られた。(写真は重之集) ![]() 盆石銘末(ぼんせきめいすえ)の松山(まつやま)砂張盆付(さはりぼんつき) 1具 中国・明時代 本願寺蔵 展示期間 全期 趣ある景色をもつ石を盆にのせて鑑賞する盆石は、中国から伝来し、唐物(からもの)を好んで取り合わせる書院飾りや茶席の床飾りに欠かせないものとなり、特に名石は珍重された。この「末の松山」は、盆石の中でも最も名の知られたもので、東山御物(ひがしやまぎょぶつ)と伝え、室町時代後期の茶人である塩屋宋悦(しおやそうえつ)が所持してのち本願寺に伝来した。当時の本願寺の記録である『天文日記(てんぶんにっき)』にも登場する。砂張(銅に錫(すず)・鉛(なまり)を混ぜた合金)製の見事な盆が添えられている。 ![]() 松桜孔雀図(まつさくらくじゃくず) [国宝 白書院三(しろしょいんさん)の間襖絵(まふすまえ)] 4面 江戸時代前期 本願寺蔵 展示期間 全期 国宝白書院は、濃密華麗な障壁画群によって室内が装飾され、また部屋ごとに画題の統一が図られている。このうち三の間は、四方を花鳥画で囲まれており、本図はその東面の襖四面に描かれたものである。青い水の流れを中央に、右にまっすぐ立ち上がる松、その手前から中央に向かってのびる満開の桜を配し、両端には野に遊ぶ孔雀を対置して、静かで気高い雰囲気をかもし出している。狩野(かのう)派に連なる渡辺了慶(わたなべりょうけい)(〜1645)一派の作とされる。 ![]() 重要文化財 松藤図(まつふじず) 徳力善宗(とくりきぜんしゅう)筆 4面 江戸時代初期 本願寺西山別院(にしやまべついん) 展示期間 10/23〜11/18 西山別院の本堂は、本願寺(西本願寺)の旧阿弥陀堂(あみだどう)にあたり、元和(げんな)4年(1618)に完成した。現在の本願寺阿弥陀堂再建に先立ち、宝暦(ほうれき)6年(1756)に西山別院の本堂として移築されたものである。本図は本堂の内陣(ないじん)の須弥壇(しゅみだん)むかって右に立てられた襖絵(ふすまえ)で、反対側の「桜に牡丹図」と対をなす。金箔地を背景に濃密な彩色で、豪壮な松の巨木と、まとい咲く藤を描いている。筆者の徳力善宗(1549〜1637)は、本願寺の絵所絵師(えどころえし)であった。 開国以来、わが国に急速な近代化の波が押し寄せていたころ、明治4年(1871)岩倉具視らの遣欧使節団に参加した本願寺(西本願寺)は、西欧の宗教政策、教育制度を学び、教団の制度と教育の近代化を図った。こうした中、大谷光瑞(おおたにこうずい)師は明治9年(1876)、第21代門主明如の長子として誕生する。19世紀末、欧州諸国やロシアは、地図上の空白地帯であった東トルキスタン(西域、主として新疆ウイグル自治区南半を占めるタクラマカン沙漠一帯)の地理学的調査のために続々と探検隊を送りこんでいた。若くして中国視察やインド仏教遺跡巡礼を果たした光瑞師は、留学していたイギリスからの帰途、仏教が中国・日本に伝来するにあたって経由し、仏教が盛んに信仰されていた西域における仏教遺跡と仏典などの遺物調査を企画し、自身も参加した。探検は1902〜14年の間に3回実施され、「大谷探検隊」と呼ばれている。 西欧の探検隊は、国家的事業として各国の博物館が実施したのに対し、大谷探検隊は仏教指導者である本願寺第22代門主の光瑞師が、仏教伝来のありさまを具体的に跡づけることを主たる目的に、私的に組織したものであった点に最大の特徴がある。 大谷探検隊による西域仏教遺跡調査の成果は、旅順博物館(中国)や国立中央博物館(韓国)のほか、国内では主として東京国立博物館と龍谷大学に所蔵されるなど、各所に分蔵され、現在もたゆまぬ研究が続けられている。 □ 主な作品 ![]() 薩頭部(ぼさつとうぶ) 1頭 6〜7世紀 龍谷大学蔵 展示期間 全期 粘土と獣毛などを混ぜて造られた塑像(そぞう)。木あるいは葦(あし)などの芯を藁(わら)のようなもので縛り、その周りに粘土を巻き付けて概形を作り、その後で別に型押しした面部などを貼り付けたとみられる。石彫が高度に発達したガンダーラ地方とことなり、西域では彫刻に適した石灰岩や片岩などの石材が産出しないため、地上寺院や石窟(せっくつ)寺院の壁面には、壁画とともに塑像の仏像が大量に制作された。目鼻立ちが顔の中央に集中する西域塑像特有の表現が認められる。 ![]() 伏羲女〓図(ふくぎじょかず) 1幅 7〜8世紀 龍谷大学蔵 展示期間 9/22〜10/21 古代中国の創世神話に基づく人面蛇身の男女神で、伏羲は文字を作り漁猟・牧畜を教える男神、女〓[か]は婚姻の制度や度量衡(どりょうこう)を定める女神。向かって左側が右手にコンパスを高く掲げる女〓[か]で、周囲には北斗七星を含む星や日月が配されている。5〜7世紀に栄えた高昌(こうしょう)国(トゥルファン)墳墓では、天井にこうした伏羲女〓[か]図を貼り付ける風習があった。1912年第3回探検隊の吉川小一郎が発掘させたアスターナ墳墓出土資料の一部である。 *〓の漢字は(女偏に「過」のつくり部分)。
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